執筆者  新井明

(1) ある授業風景
 先日、公開授業を参観するチャンスがありました。
その授業は「倫理」で、『桃太郎』を素材にして、「桃太郎は父を殺した」と言う鬼の子どもの訴えをもとに、正義は鬼か桃太郎かという授業でした。見学した授業では、子どもの訴えをもとに、鬼と桃太郎それぞれの言い分を提示して、前の時間に提出したどちらが正義かという結論を、もう一度考えさせるという流れで進みます。
 生徒は、最初の桃太郎に正義があるという回答から、グループでの討議を経て、最終的にどちらが正義かをまとめて発表します。それをうけて、先生が、いろいろな立場の人がいて、考え方が違うので、対話が必要という形でまとめてゆきました。
 この授業を見て、二つの問題を感じました。
 一つは、もう一歩の踏み込みがあったらいいのに、もったいないなという思いです。もう一つは、ここに「おもしろ教材」を使う場合の落とし穴があるなという感想です。

(2)「おもしろ教材」の落とし穴
 この授業の何が問題と感じたのか。
それは、「おもしろ教材」の「おもしろ」部分に目がいって、「教材」の吟味、分析が十分でなかったかということだと筆者は思いました。
 授業では、生徒は楽しそうにグループ学習を行ない、見学にきていた校長先生は「普段の授業とはずいぶん違う」とお褒めの言葉を発していました。とはいえ、この教材から何をくみ出して、伝えるのか、もしくは発見させるのかという教材分析がやはり十分ではなかったのではないかという思いは残りました。
 この授業は「倫理」ですから、生徒に伝えるかどうかは別として、少なくとも正義論の古典的な押え(カント、ミル、現代ではロールズなど)が欲しかったところです。民俗学的な考察も欲しいところです。
 もしこれが「公民的分野」や「政治・経済」だったら、模擬裁判にしたり、ディベートにすることも可能でしょう。 ちょっと牽強付会に経済に結びつけるなら、桃太郎会社の社長と社員、社員間の比較優位の組み合わせという視点も考えられます。
 「おもしろ教材」の陥りやすい問題は、生徒の食いつきの良さや意外性に注意がゆき、教材への吟味が不足になりがちなところと言って良いでしょう。 残念ながら、そんな落とし穴に半分はまってしまった授業のようでした。

(3)「おもしろ教材」を分析してみると
 このコーナーでも、「おもしろ教材」の例として絵本や童話を教材になどの提案をしたことがあります。(2015年4月号8月号9月号
 そこで今回は、あらためて「おもしろ教材」の例をあげて、教材としての切り口を提示してみたいと思います。
とりあげるのは、『レモンをお金にかえる法』のその1です。(ストーリーは省略します。手に取って読んでみてください。また、その2は昨年末の「冬休み経済教室」金子幹夫先生が、アッと驚く展開例を提示していますので、それをご覧ください。)
 さて、『レモン』をどう分析してゆくか。
①価格の決まり方から市場経済のメカニズムの学習として見る
 レモネードという商品市場は完全競争市場に近い設定です。そこから、一度の交渉で決まる自然価格、市場の売手と買い手(多数のこどもたち)の   思惑から決まる市場価格と価格決定の物語として展開もできます。
 この時、グラフを使って市場価格の決定を可視化することも可能です。
②企業経営の話とする
 本のなかに、企業の目的は利潤をあげるということが出てきます。ここから、ミクロ経済学の企業理論に持ち込むことができます。どうしたら    利潤が最大に出来るか、数式にして計算させてもよいし、グラフで説明することも可能です。
③金融の話とする
 主人公は、店を開くとき自己資金では足りないので父親から借金をします。最後には「耳をそろえて」返済しますが、利子はどうするか、父親以外  から調達する場合はどうするか、など起業と金融の話に持ち込めます。これって、今度の学習指導要領の内容そのものですね。
④ゲーム理論の導入にできる
 主人公の女の子と元労働者のジョニー君は価格戦争をやります。これはゲーム理論の囚人のジレンマ状況そのものです。それを解消するために合併をするのですが、寡占企業の結託はうまくゆかないというゲーム理論の世界へ誘い込むこともできます。
⑤労働問題の話とする
 主人公の女の子に雇われたジョニー君は賃金、労働条件が不満なので争議になります。レモネード屋さんはブラック企業なんですね。そんなとき に、労働者としてどうするか、現代的な切り口で話を展開もできます。
 また、機械による失業が登場して、AIに職場が奪われるというこれも現代的テーマに発展できます。
⑥起業の物語として攻める
 最後に主人公の女の子が「成功した企業家」になったという文章がでてきます。ストーリー全体を起業家教育のススメの教材とすることができま す。
⑦文化論で迫る
 女の子の行動はどうも日本人の感性とは大分ことなって、ドライです。なんでこんな話を子ども向けの絵本にするのか、隠されたメッセージは何かを考えさせることを通して、単なる経済の絵本ではないのではという形の問題提起も出来ます。
 もっと切り口はあるでしょうが、一つの「おもしろ教材」を分析するだけでこんなに多面的要素が浮かび上がるのです。

(4)問題は「教師の解釈」
 小見出しの表現は、斎藤喜博の本から取りました。
斎藤喜博は今や知る人ぞ知るという存在になってしまいましたが、昭和の時代のすぐれた授業実践家、理論家です。
 偶然手にしたその著作のなかに、授業案の作成について触れた箇所があり、そこに「教師の解釈」という言葉がでてきました。
そこにはこんなことが書かれていました。(『授業の展開』国土社より)
 「この項(教師の解釈)には、その教材に対面したその教師の全部の力が結晶されて表現される…」「この項を読めば、その教師がどれだけの力を持ち、どれだけ深く確かに教材を解釈し、教材と対面しているか、その教材での専門的な力をどれだけもっているかわかる…」
 ちょっと怖いほどの迫力です。
 どんな面白そうな教材でも、それに食いつき、咀嚼し、それを生徒に還元してゆくプロセスは、時代を超えて変わらないでしょう。そのことを通して「おもしろ教材」の落とし穴にはまらない授業が成立するのだろうと思います。
 
 それにしても、ここまで書いてみると、斎藤流に言えば、筆者の力量が白日のもとにさらされてしまったようで、筆は災いの元かもしれません。

(メルマガ 134号から転載)

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