私ならこう教える 〜 「情報の非対称性と市場の失敗」の経済学
執筆者 篠原総一

経済理論
中高の教科書にも、実にさまざまな経済理論が登場します。市場の価格決定、企業の生産関数、公共財の理論、ゲーム理論、景気循環論、需要管理政策の理論、金融理論、リカードの比較優位原理、為替レート決定理論などなど、リストはまだまだ続いていきます。
実は、いずれも経済の実際を観察し、問題を発見し、課題解決を考える上で、本当に役に立つ見方・考え方なのですが、時間の制約も厳しい中等教育ではどうしても浅く広く、軽く触れるだけになってしまいます。
そんな中で、中学生や高校生にも、短い授業の中でエッセンスだけは十分に教え切れそうな経済理論を探してみました。老エコノミストのこんな探索に引っかかってきたのが、情報の非対称性でした。他にも外部性、公共財などもその候補でした。

元来、理論学習とは論理を追いかけるようなものです。ですから、まだ抽象的思考に慣れていない中高生に歯が立たないのは当然のことです。が、しかし、です。非対称情報に関する経済学なら、上手い例さえ見つけられれば、なんとかなりそうなのです。

今月は中高生にも分かる経済理論の授業の提案です。ネタは、生徒にも肌感覚でわかりそうな中古車市場。狙いは、「経済理論を使うと、なぜこんな問題が起こるのかというカラクリが見えてくるので、その問題の解決策を、思いつきではなく論理的に考えられるようになる」という理論学習の強みを生徒に伝えることです。

授業のシナリオ:「情報の非対称性と市場の失敗」

(1) 授業の準備:上手い例を探す
情報の非対称性は、高校公共の教科書では二箇所で登場します。消費者問題の章と市場の章です。なぜ二箇所にわけたのか、それは同じ「情報の非対称性の存在」でも、社会に与える不都合の種類が二種類ある、と教科書が訴えているからです。
今回取り上げるのは、非対称性情報と市場の失敗です。市場の失敗が起きていくプロセス」を、生徒に肌感覚で考えてもらおうというわけですから、この授業の成否は、先生が事前に選ぶ「例の良し悪し」にかかっています。生徒にも概念がすぐに分かる、そして「隠れた価格調整メカニズム」も見えるような例です。

この分野の研究で使われてきた「例」の代表例を並べておきます。
・中古車市場
・(中古)住宅市場(東京書籍「公共」令和4年版、119ページ)
・保険市場
・雇用者と被雇用者の関係と賃金
・所有と経営の分離
・患者の医師、事故被害者の弁護士、子供の塾や家庭教師選び
などです。
先生には、こんなリストの中から生徒にアピールしそうなものを一つ選んでもらいます。
同時に、あと一つ二つ、授業の振り返りの段階で別の例を持ち出してあげれば、生徒の理解が確実なものになるはずです。
以下では、ジョージ・アカロフ先生が使った中古車市場を例にしてみます。

(2) 授業(第1幕):中古車市場の価格調整メカニズム
どの教科書にも「市場の価格調整メカニズム」が出てきますが、ここでは普通に考えられているメカニズムとは別の、中古車市場ならではの調整メカニズムを取り上げ、中高生にも分かりそうなシナリオを作ってみました。

・日本で販売台数が最も多い車は日産ノートだそうです。そこで、その日産ノートの7年落ち車を例にして、中古車の売り手と買い手の思いを再現してみます。

(2-1)まず、情報の非対称性について。
・ 買い手(需要者)(1):中古車には、例えば燃費が極端に悪いとか、電気系統が故障しやすいとか、いろいろ欠陥がありがちだ。でも、同じ年式の同じ型式の車は、外からみただけではどれも同じにしか見えないな。車ごとの「隠れた質」を識別できないから、本当は状態のいい中古車でも、ひょっとするとこの車も状態が悪いかも、と疑いたくなるよね。
・ 売り手(供給者)(1):7年もこの車に乗っている私には、この車の欠陥は分かってる。でも売りに出すときにわざわざ欠陥の状態を伝えたくないよね。

(2-2) 取引1回戦
次に、数多くの買い手と売り手が取引をする市場です。(実際には、金融における銀行仲介と同じように、ここでも中古車業車が介在するのが普通ですが、授業では仲介業者のことは伏せておけば良いかと思います。)

・ 買い手(1):最高に状態のいいノート車になら50万円でも払うが、最悪の状態のノート車には20万円がせいぜいか。でも、車ごとの欠陥の違いは分からなので、中を取って35万円までなら支払うことにしてみようか。
・ 売り手(1):えーっ、35万円だって。冗談でしょう。自分のノート車は状態がいいし、最低でも50万円は払ってくれないと。とにかく35万円だったら、今は手放さないでしばらく自分で乗り続けてみよう。(50万円の値打ちがある車は、市場価格が35万円では、市場で売られることはありません。)
・ 売り手(2):実は私のノート車は状態が悪い「ボロ車」同然。それでも、たとえ最低でも20万円でも売りますよ。それを35万円もくれるなら喜んで売りたいものです。そうならラッキー!です。

こうして市場では、7年落ち日産ノートで走行距離が同じ車が、最高50万円と最低20万円の間で、例えば35万円で取引されていきます。
ここでのポイントは、買い手が市場価格35万円で購入できるのは、売り主の評価が35万円未満の、状態のあまりよくないノート車だけだという点です。

(2-3) 取引2回戦
話はこれで終わりません。その後、35万円でこのタイプのノートの中古車を購入した人たちが、今度は新しい売り手になっていきます。取引第2回戦の始まりです。

・新しい売り手(3):35万円で買ったこのノートは、乗ってみて初めて分かったけど、燃費が思ったより悪い。これなら、もし30万円以上で売れるなら、いますぐに手放して、別の中古車に変えた方が得かな。
・新しい売り手(4):35万円も出したのに、このノートは期待はずれ。しょっちゅう故障するし、走りも意外に不安定。これなら20万円ででも手放したい。
・ 買い手(3):取引1回戦では購入できなかったけど、今度は前より状態の悪い車が売りに出されているらしい。そうなら、中には35万円でも買いたい車もあるだろうが、10万円でも買いたくない車に当たるかも。ここは賭けだから、中をとって25万円で買うということにしておこうか。

こうして、2回戦の市場価格は、前の35万円よりも低い水準、例えば25万円に決まる可能性大です。その場合、2回戦では、今度はさらに状態の悪い(値打ちが25万円に満たない)車だけが実際に取引されることになります。

(2-4) 取引3回戦
その結果、取引3回戦では、2回戦の時よりもさらに値打ちの低い(25万円以下の)車だけが売りに出されます。そしてこうした悪循環が続けば、最悪の場合、市場が消滅し、誰も中古車を一切買えない社会になってしまうかもしれません。

(3)授業の幕間:アカロフの理論モデルから分かること
アカロフ理論のまとめです。
・ 中古車には各々の車には、外観からだけでは識別できない「隠れた質」の違いがある。
・ そのため、買い手は対象となる車の質に疑心暗鬼になり、状態の良い車でもその車の質に見合うだけの評価をしない。
・ だから、状態の良すぎる車は、値段面で折り合いがつかないため実際に売られることはない。逆に状態の良くない車は、持ち主が評価する値打ち以上の価格がつくので、喜んで売りに出される。
・ こうして、中古車市場は状態の良すぎる車や状態の良い車を市場から追い出し、逆に状態の悪すぎる車や状態の悪い車ばかりが実際に売れていく。
・ そのため、買い手が市場への信頼を失い、最悪の場合には市場が消滅してしまう。

(4)授業の第2幕:情報の非対称性はなぜ「市場の失敗」?
これが「中古車市場の失敗」の内容ですが、生徒にとっては、なぜ「失敗か」という理由の理解も必要です。そのためには、「失敗しない市場」との比較が、生徒の納得感を勝ち取る授業ではないでしょうか。
  教科書は「需給均衡点で効率的な資源配分が実現される」といった生徒を煙に巻く曖昧な説明で済ませていますが、私は、次のような単純明快な例でことは充分足りると思っています。

(挿入授業) 肌感覚で分かる「失敗しない市場」
・ ショッピングモールや駅前に食べ物屋さんが軒を連ねています。中には「美味しいものを安く食べさせてくれる店」もあれば、「それほどでもないのに値段は高い」店もあります。
・ そこでは、どの店も、客を惹きつけるためにできるだけ美味しくて安い食べ物を出せるように努力しているはずです。(競争が企業努力を引き出します)
・ しかし、それでもダメな店は店じまいし、代わりに別の店が入店してきます。
・ このようにして、市場の競争は「買い手にとって好ましくない企業」を市場から追い出し、逆に「好ましい企業」を残していくという役割を果たしていることがイメージできます。

これに対してアカロフの中古車市場は、買い手にとって好ましい売り手を市場から追い出し、逆に好ましくない売り手を市場に残していきます。本来の競争市場とは逆の働きです。経済学ではこれを「市場の失敗」だと呼んでいるのです。(ただし、市場の失敗にはそのほかのタイプもあります。)

(5)授業の第3幕:課題解決
情報の非対称性が市場の失敗につながっていく市場の調整メカニズムがわかれば、問題はどこを正せばよいのか、生徒にも見えてくるはずです。答えは「消費者の疑心暗鬼を解くこと」です。
こうしておけば、生徒も的外れの思いつきに走らず、しっかりと論理的に課題解決法を探すことができるようになります。
一方、先生には、「市場の失敗、だから政府の介入」といった安易な結論に走らず、事前に書物やネット、ChatGPTなどを駆使して解決策の実際例を整理しておかれることを勧めます。私は、その中で
 ・車検制度
・中古車業者の工夫
に注目しています。
車検制度では、国土交通省が全ての車両保有者に対して、検査前に細かな整備を済ませることを義務付けているため、買い手も、中古車の間で「隠れた質の差」は無視できる小さくなっている、と思っているはずです。また、中古車業者も自社で買い取った車を整備し、その上で修理補償をつけるなど、買い手の疑心暗鬼を取り除く工夫をしています。ですから、幸いなことに、日本では「中古車市場の失敗」は表面化していないと言えそうなのです。

(6)振り返り:他の例も使ってみる
最後に、中古車市場以外の例を示し、その場合も中古車市場と同じ種類の市場の失敗が起こること、そしてそのための問題解決の手段としては、それぞれの例ごとに、政府ではこんな規制法が、民間ではこんな工夫があるという、復習兼確認の授業を加えられてはいかがでしょうか。

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