執筆者  神奈川県立三浦初声高等学校 金子幹夫

1.はじめに
 前回は「文字記号にこだわって経済の授業を考えていきたい」と最後に示しました。そこで第3回目は、どうして文字記号にこだわるのか、からはじめます。
 ここでいう文字記号というのは、教科書に書かれている用語や、私たちが毎日ノートに書き示す際に使う言葉のようなものだとします。

2.なぜ文字記号にこだわるのか?
 なぜ文字記号について考えるのか?授業をやっていて、ものすごく気になるからです。文字記号はとても便利なものだということはここで述べるまでもありません。
ところが文字記号の有効な使い方を忘れて授業をしてしまいそうな空気が教室の周りに漂っているのではないかと思うのです。これが一つの要因となって、教師が伝えようとしている知識と生徒に届いた知識との間に齟齬が出ているのではないかと感じるのです。

3.知識の発信を巡る教師と生徒のギャップ
 筆者が授業中に気になることをもうすこし具体的に書いてみます。
 例えば、ここに経済の知識を伝えようとしている教師がいるとします。
教師の頭の中には経済学のテキストを読んだ知識、どのように教えることが有効かという知識、そもそも持っている生活経験から得た知識等が混在しています。
 同様に授業を受ける生徒がいるとします。
一人ひとり育った環境が異なります。よって皆それぞれに生活経験から得た異なる知識を持っています。今日まで積み重ねた学習から得た知識も持っています。
 そこで、教師が経済学習に関する知識を発信したとします。
主として文字記号を使って知識を発信します。生徒は自分に向かって飛んできた知識を、それまで身につけている知識にどのように組み込むのかを考えます。部分的な知識の再構成が必要になるわけです。単純な知識の足し算にはなりません。
このとき、教師が発信する知識について敏感になる必要があると授業中に強く感じるのです。
今回の結論のようなものを先取りすると、生徒にとって生活経験につながらない文字記号による知識は、認識につながらないのではないかということになります。

4.教科書記述の背景
 教師が発信する知識について考える際に道標となるのが教科書です。この教科書に書かれている“知識”はどのような背景を持って描かれているのかを考えます。
その時に、教科書には記述されることのなかった背景の存在に気付きます。教科書はページ数が限られています。あれもこれも書こうというわけにはいきません。きっと教科書の筆者は「残念ですが削ります」という思いを何回も繰り返しながら執筆をすすめたのではないかと想像します。
もしもこの想像が的外れでなければ、教師の仕事は、まずは削られてしまった筆者のメッセージ探しということになります。
 
5.「教科書の向こう側」を推測する
 教科書に書こうとしたのにページ数の都合で削られてしまった知識の集まりを便宜上「教科書の向こう側」と表現してみます。向こう側は見えません。でも周囲の景色(記述)から推測することができそうです。推測の手がかりは文献です。
 はじめに手に取った文献は、経済学者小塩隆士先生の『高校生のための経済学入門』(ちくま新書)。教科書に書かれていない記述はどこにあるのでしょうか。
さっそく第1章に「需要曲線は、人々の所得や好み、ほかの財の価格など、『ほかの条件を一定』として描かれたものです」とあります。筆者の手元にある教科書の需給曲線の箇所には、この記述はありません。
 これを手がかりに経済学のテキストを見ると同様の記述を見つけることができます。
岩田規久男先生は『ゼミナールミクロ経済学入門』(日本経済新聞出版社)の中で、「(ミクロ経済学では)『コーヒーの価格以外の全ての財・サービスの価格と人々の所得とを一定と仮定して、コーヒーの価格だけが変化したときに、コーヒーの需要量はどのように変化するか』という問題が扱われている」と記述しています。ほかにもこの種の記述を大学向けのテキストから発見することができます。
 これがきっと教科書に書かれることなく削られてしまった内容の1つなのではないかとねらいを定めました。

6.右から左にではない
 ここで舞い上がってしまうと火傷をします。
「さあ、教科書に書かれていないけれども大切な考え方があるよ」と言って、経済学のテキストに書かれている内容を教室で再現しようとすると、生徒の知識は混乱してしまう恐れがあります。
 それではどのようにして教師は経済学習に関する知識を発信することが有効なのでしょうか。
考えるのは生徒の状況です。浮かび上がるヒントは“生徒の生活”です。一人ひとりの生徒が身につけている様々な生活経験による知識と、教師が教えようと描いている知識を結びつける工夫がなんとかできないか、と考えます。でも、うまく結びつくのでしょうか。

7.決め手は「ミニミニ作文」
 それでは学問の世界と生徒が生きている世界とをどのように結びつけたらよいのでしょうか?
 本稿では、生徒がもつ知識の中にそのヒントが隠されているのではないかという実践を紹介したいと思います。
 筆者が生徒を見る中で選択した方法は“ミニミニ作文”です。タイトルは「コンビニエンスストアと私」としました。
どうしてミニミニ作文なのか。それは、生徒一人一人異なる生活経験の中から経済教育に必要な知識をあぶり出すために作文が使えると判断したからです。量は20~30行程度にしました。一番言いたいことを書いてくれると想像したからです。
なぜコンビニなのか。それは、高校生にとってコンビニは生活の一部だからです。お客様としてコンビニを見て、アルバイト店員さんの目でコンビニを見たりしているからです。ちょっと大げさですが、この目は“家計”からの眼であり、同時に“企業”からの眼でもあるわけです。

 授業では、この生徒が書いた文を紹介します。
「私は小さいころからコンビニに助けられてきました」、
「日本中、どこにでもコンビニがあります」、
「いろいろな商品が売られているだけでなく振り込みもできる」、
「私を幸せな気持ちにしてくれる」 といった記述が実際にありました。
 
 この作文を用いた授業で生徒に何を気づかせたいのか。それは、市場経済がいかにうまく機能しているのかということです。
大竹文雄先生は『競争と公平感』(中公新書)の中で、「教科書を読んだ生徒たちは、市場は失敗するし、独占はとにかく悪い、ということだけを理解するはずだ。多くの問題はあっても競争によって得るメリットは大きい、という共通の認識を私たちがもつような考え方をするべきではないだろうか」と指摘しています。「学習指導要領では、市場競争のメリットを教えるように書かれていないから」このようなことが起こるとも書いています。

 それでは、どのようにして市場競争のメリットを生徒に気付かせればよいか。それを大竹文献から探しました。
見つけた文は「市場がうまく機能する場合も多い。スーパーに商品がたくさんあり、売れ残りや、品切れが少ないのは、市場経済がうまく機能しているからである」というところです。スーパーの部分をコンビニにかえて解釈しました。
そして、教師が熱い想いで「市場経済はうまく機能している」と10回も20回も言うよりは、生徒に一回「市場ってけっこううまく動いてんじゃない」と自分の言葉で書かせてしまった方が有効だと判断したのです。
 
8.「問いの共有」で経済学習の入り口に立つ
 市場はうまく機能しているようだということを生徒に言わせました。その次に学習する内容は、「需要と供給」です。
ここで教室内において共有しなければならないのは、「どうして需要と供給を学習しなければいけないのか」ということです。
 コンビニのことを書いてくれた高校生の作文に「コンビニで売っているものは高い」という記述があります。「安く買いたいときはスーパーに行く」という記述もあります。どうしてコンビニの商品は高いのだろうかという問いを共有できそうです。

話題が「価格」に移っていきます。
 問いが共有できたら、次は直感で捉える段階に入ります。生徒との対話を続けていくと、たいていは“値下げシール”が登場します。「モノを売りたい人の気持ち」と「モノを買いたい人の気持ち」を直感で捉えて文字記号で表すことができます。
 ここからグラフを作成して説明する展開になれば、かなりのレベルの授業が展開できますが今回はそこには触れません。

9.まとめ
 文字記号はとても便利なもので授業には不可欠のものです。しかし、薄っぺらな使い方をしてしまうと、教師の発信したメッセージは生徒に届かないことが生じます。
「公民科」教師は文字記号の前提や多面性を「厚く」捉えないと生徒の心に届くメッセージを発信することはできないと思うのです。それではどうやって文字記号を「厚く」捉えることができるのでしょうか。
 文字記号を厚く捉えるためには、「公民科」教師が経済学習をとりまく文字記号の世界をできるだけ細分化して、1つひとつを掘り下げて言葉と生活実感をつなげてゆく作業が有効だと思うのです。
本稿では教科書の記述を一部掘ってみました。本文に書き込むスペースがなく埋もれてしまった記述を掘り起こそうと試みました。掘り起こす際に手元に置いたのは経済学者が書いたテキストです。
1つひとつのテキストデータに丁寧に向き合い、それをもとに、生徒の持つ知識を掘り起こしながら、生徒に届く授業づくりをしてゆきたいと考えています。

これまでのシリーズ「金子Tの授業づくり」
第1回 
第2回 

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