執筆者 新井明

(1)北海道に栃木があった
 今回は、経済というよりもうすこし広い話題を取り上げます。
 先日、北海道北見のWSに参加しました。その前に、北見北斗高校の山﨑先生の案内で周辺のFW(フィールワーク)を行いました。
 網走刑務所の正門、サロマ湖、佐呂間町の体育館(カーリング場がありますが、休館でした)などを回って、そこから内陸に入ります。
 そこに栃木がありました。栃木神社もありました。山﨑先生から質問が出されます。「なぜここが栃木?」「どんな人たちが開拓した?」
 栃木県の人たちが開拓した地であることは分かりましたが、そこに移り住んだ人たちがどこからかは答えられませんでした。
 答えは、旧谷中村の人たちでした。
 1907年(明治40年)に鉱毒と洪水に悩む渡良瀬川と利根川の合流点に近い谷中村を廃村にして遊水池を作り、住民を集団移住させたと歴史の教科書には載っています。その時に、住民とともに谷中村に残って抗議したのが田中正造です。では移住した人たちがどこにいったのか。その一つがこの栃木地区だったのです。
 1911年(明治44年)にこの地に入植した谷中村出身の人たちの苦闘の歴史は佐呂間町の町史に記されています。同町のHPでもその苦闘のようすは読むことができます。
 田中正造までは有名ですが、その後の人々までは注目されることはほとんどありません。現地に立ってみて、はじめて、当時の人たちの思いの一端を感じる事ができました。

(2)地名がもつ地理的背景・歴史的背景
 民俗学者の柳田國男は、1936年(昭和11年)に『地名の研究』を刊行して、日本の地名研究の先鞭をつけています。柳田が問題にしたのは、地名がつけられた由来で、この本は、地名がもつ歴史性、地理的な意味を探ることで、地域や住民の生活を明らかにしようというねらいの本です。
 柳田はこの本のなかで、地名を生活の必要から命名する「利用地名」、ここは自分の土地だと宣言するための「占有地名」、地名を分割して名付ける「分割地名」にわけています。
このうち「利用地名」は一番古い地名で、土地の自然条件が分かり、防災教育に活用できます。「占有地名」は開発にともなって所有を明確にするために名付けられたもので歴史的な背景が分かるとされています。「分割地名」は「占有地名」をさらに細かく大小、上下、東西南北、原と新など、地域を細かく区別するために付けられたものという位置づけをしています。
この分け方からすると、栃木地区は、新という名称はありませんが移住によって名付けられた「分割地名」と言って良いでしょう。
 北海道にはアイヌ語をあてはめた「利用地名」も多いのですが、この種の「分割地名」も結構あります。
 最近の話題では、日本ハム球団が新球場を作ろうとする北広島市、JR北海道の廃線計画(札沼線)で登場する新十津川町などがすぐにわかる事例です。
 日本全体を見ても、和歌山県の那智勝浦や白浜と千葉県の勝浦や白浜のように同じ地名の例があります。これも移住による「分割地名」です。
 もっと有名な移動による「分割地名」では、アメリカのニューヨークなど、ニューが付く場所はみんな広い意味で「分割地名」と言って良いでしょう。
 ちなみに筆者の住む東京西郊の地名にも「分割地名」は多く、新田開発で親村から分かれて子村名として付けられた地名や、武蔵野市の吉祥寺のように江戸時代の火事で焼け出された駒込の吉祥寺付近の住民の移住で付けられた地名があります。
 全国で同じ地名を探して、そのルーツをたどることで歴史が分かることも多いはずです。

(3)国際的人口移動と地名
 ここからは少し経済との関係に触れます。
 現在、日本でも外国人労働者の受け入れ拡大を目指す出入国管理法が審議されることになっています。難民問題は報道こそ少なくなっていますが深刻な問題です。
 これからも世界的レベルでの人口移動や国際的労働移動はやむことはないでしょう。
 国際的人口移動が行われても、ここは俺の土地だと宣言するような「占有地名」が現れることはないでしょうが、移動による「分割地名」が登場することはあるかもしれません。
そんな大きな社会変動も見据えながら、足下の地名に気を配る。その地の歴史や地理的な背景に関心をもつことで、政治や経済の学習も立体的に浮かび上がることになるといいですね。

(メルマガ 118号から転載)

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