執筆者 新井明

 公民の教科書にはゴシックで印刷されている用語がたくさん登場します。教員も生徒もその用語に注目して、教員は解説を、生徒は暗記に走ることが往々にして走ることが見られます。ところが、教える側が解説だけでなくしっかり
その言葉や概念が登場してきた背景や原典までみておかないと、用語が一人歩きしたり、まちがった使われ方をしてしまうことが起こります。

 例えば、「見えざる手」。昔は「神の見えざる手」と教科書には書かれていたこともあります。また、見えざる手=市場メカニズム=自由放任と三大話で暗記されていることは現在でも結構おこっています。
 「見えざる手」に関しては、『国富論』(『諸国民の富』とも表記されています)のなかでは一度しか使われていない用語であり、「神の」は書かれていないこと、直接市場メカニズムのことを述べたものではなく、スミスは自由放任という用語を使っていないなどの事実を知らないと、ミスリードを起こしがちです。

 同じような事例は結構多くあります。マルクスは資本主義という用語を使っていない(資本家的生産様式)とか、リカードは比較生産費説という言葉は使っていない(比較優位という言葉もない)という事実などがそれにあたるでしょう。
 このような教科書でててくる用語は、原典が教科書化されたなかで作られたり、まとめる意味で後継者の手によって名づけられたりしています。そういった研究は専門家に任せたとして、現場の教員ができることは、教科書的に当たり前とされている事項や用語に関しても無批判に受け入れるのではなく、時間があれば原典にあたるなどのほんの少しの道草をすることです。

 特に教科書に出てくる決まり文句は要注意です。一見重箱の隅をつつくような話ですが、教科書という本の性質を知ったうえでの授業とそうでない授業のでは、生徒の経済理解が大きく変わる可能性があるといえるでしょう。
 ちなみに、この種の用語の使い方に関する最近の論考には、下谷政弘『経済学用語考』日本経済評論社があります。そのなかでは、筆者が書いた「カルテル・トラスト・コンツェルン」の箇所が問題例として取り上げられています。

(メルマガ 94号から転載)

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