執筆者 元公立中学校教諭 奧田 修一郎

私は、パフォーマンス課題とか評価論の研究者ではありませんし、現場からも離れていますので、実践者でもありません。
そのため、杉田先生の論考を受けて何か書くことは、とてもできることではありません。ただ、全くの私見ということであれば、普段考えていることを、独り言のように呟くことができるのではないかと、パソコンに向き合っています。

1 評価はもらってうれしいもの
 評価は教師にとっては楽しいものであり、生徒にとってはもらってうれしいものです。
おっと待ってくれ!「評価」「成績」「テスト」は不快で面倒な言葉じゃないか!という声が聞こえてきそうです。教師は、生徒は何ができなかったか、ここまでしか到達していなかったかを、判定する人でないのか?
確かに、テストをし、成績を出すということが学期末に控えていると、「楽しいもの」なんて、悠長なことは言っていられませんよね。でも、評価することは、生徒が自らの成果(パフォーマンス)を発揮するのを助けることと考えてもいいのではないでしょうか。教師は、これまでの紆余曲折の生徒の学びに一喜一憂し、生徒は教師の言葉に励まされて、一歩前進む!なんていうイメージです。理想過ぎるぞという声がさらに大きくなりそうですが。

2 ルーブリック評価がすべて?
 評価については、評価と学び(指導)の一体化が言われ続けてきました。つまり、評価の目的は、教師の教え方と学び方を改善することにあるというものです。
評価は、教師が明確な到達目標や評価基準を設定し、生徒がその基準の意味を理解できるようにし、授業の目標を達成した、またはしていないかどうかを、自分自身で形成的に評価しながらフィードバックすることで、目的を果たします。そのためには、生徒が教師の設定した到達目標や目安の理解できるように、ゴールに向かうように、助ける必要があります。
この場合、ルーブリックはとても大切な評価ツールになるのですが、すべての課題にルーブリックを作成しようとすると、杉田先生が書いておられるように、不必要な時間がかかってしまうわけです。そのため、評価は、自己評価、相互評価、ポートフォリオ、チェックリストなど、いろいろな場面で方法をかえながら、行う方がいいように思います。時には、チェックリストで十分な時だってあります。評価疲れしないことです。また、評価ということであれば、地域社会、企業、学術的研究などの現実社会からの評価がとても有効であることを多くの実践で確かめられてきていますよね。

3 パフォーマンス課題と永続的理解
 明確な基準を設定し、生徒がそれを達成できるように支援することは、その基準そのものが、課題にとって意味のある場合、あえてそもそも論でいうと、課題そのものが学ぶ意味のある場合のみに意義があると言ってしまうのは言い過ぎでしょうか。
パフォーマンス課題とは「リアルな文脈の中で、様々な知識やスキルを使いこなすことを求めるよう課題、具体的には、レポートや新聞といった完成作品や、プレゼンテーションや実験のプロセスなど実演を評価する課題」(西岡加名恵)こととされています。また、質のよいパフォーマンス課題は、いろんな場面で役立つ内容、大人になっていつも覚えてほしい理解につながっているのか、また、学問の中核部分の永続的理解(原理や一般化)ができているかどうかを評価するためのものになっているかが問われます。
授業レベルで話しをすると、まず、公民の授業で理解させたい原理や一般化、もしくは考え方を、教師が明確にします。次に単元を通した「本質的な問い」を考えてゆき、各授業時間の主発問を設定するという逆向きの設計でしょうか。

具体例にお話します。昨年、小学校・中学校の授業をお手伝いさせてもらい、「水の行方」という授業を展開しました。この授業での永続的理解は、「水は循環している」こと掴ませたいというものにしました。
そのため、水の授業では、「飲料水の確保」というアプローチがとられていますが、「再生水利用と水質の改善」という視点から、カリキュラムをつくれないかを考えました。
具体的な学習課題としては、
「どこからが排水、どこからが廃水?」
「再生水はどこに流され、どのように利用されている?」
「宇宙ステーションの水利用はどうなっている?」
「自分の町の下水道は、分流式それとも合流式?」
「豪雨時、町を浸水から守るために行っていることは?」
「船の乗組員の水は、どのように確保している?」などです。
その授業のある時間に入らせてもらったのですが、子どもがこんなことをブツブツ言っていたのです。
「じゃあ、恐竜のおしっこをオレら飲んでいるんや」と。このつぶやきをどう思われますか。
 
中学校社会科公民的分野では、どんな永続的理解を考えていけばいいのでしょうか。実践は多くこれまでも出されてきたので、あえて提案することもないのですが、カリキュラムの面で少し考えてみたい枠組みがあります。
それは、「歴史的に見ても、現代もいろんな所や場面で対立があります。実際に対立をどのように対処・解決し、さらに対立が残る場合にはどうしたらいいのかを考えていきましょう」という大きな括りです。
ただ、どんな論争問題が適切かは、学ぶ子どもたちのリアルな文脈が大切にされる必要があります。というのも、事前知識がないところでは学びが成立しにくいと考えるからです。

4 「探究する」ということ
 「探究」が中高で今後はもとめられるのですよね。では、「探究」とは何かです。
学習指導要領も踏まえて、あえて定義すると、「探究とは、意味のある問いを示し、情報を見つけ、整理・分析し、結論を導き、可能性のある解決策を対話的に考えるプロセスのこと」としておきます。
しかし、子どもははじめから探究していく上で必要なスキルや知識は持ち合わせていないわけです。
そのために、まず求められるのが、教師によって生徒が課題に興味を持つように仕向けていくことですよね。これは、河原和之先生が取り組んでこられたネタ研の真骨頂の部分だと思います。

次に求められるのが、子どもへのはげましです。
面白いと思っても、やる気は長くは続かないのが、学びの姿としてよくあることです。はげましは、教師だけでなく、仲間や保護者、地域の方、実社会現場の人などからあるといいでしょう。
私がよく行っていたのは、カンファランスと言いたいですが、ほとんどカウンセリングでした。
それともう1つ!探究する手順を示すこと、または探究のモデル、中学生だったら高校生、かつての先輩のやってきたことがあると、前に進みやすくなります。

5 最後に「学びに向かう力」「主体的な学び」について
 新学習指導要領では、4観点から3観点になり、「関心・意欲・態度」が「主体的に学習に取り組み態度」に変わったことは周知の通りです。
また、この主体的な学びの評価は、これまでの関心・意欲に加えて、「粘り強く取組を行うとする側面」「自らの学習を調整しようとする側面」から、学びの姿を見取ろうというものです。
ここで考えておきたいのは、粘り強く取り組む態度だけを注目しても、その力の十分な育成にはつながらないということです。
「探究」にはある期間がどうしても必要です。この長距離(マラソン)を走るには、学習者は教師・仲間のはげましを受け、自己の振り返りから自分を知り、他者に思いをはせながら、示されたモデルからイメージしたゴールに向かって、できれば楽観的に!走る必要があります。
教師は教師で走り(学び)の中で、認知と非認知という2つのスキルがどう育成されているのかを見取り、子どもたちにその都度、フィードバックしていく必要があります。
この時、教師はどこにいるのでしょうか。伴走者として寄り添い、勝負どころの沿道脇でエールを送り、ゴール付近のラストスパートをきかす地点で、声を枯らしている。そんな姿でしょうか。

(メルマガ 148号から転載)

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