執筆者 新井明

 東京部会の杉浦先生の授業報告でもありましたが、思考実験が注目されています。これは、新科目「公共」のなかで登場して、先生方にちょっとした驚きを与えた言葉です。
 思考実験そのものは、哲学の世界では古くから行われてきました。法哲学者の森村進さんの近著『幸福とは何か』(ちくまプリマー新書)では、「思考実験なくして哲学なし」とまで言っています。
 なんだか、恐ろしいようなスローガンですが、内容をよく見てみると、これまで経済学や経済教育でも似たような取組みをしています。
 森村さん曰く、「それ(思考実験)は現実の状況を複雑化させ明快な回答を難しくしている様々な要素をあえて捨象することによって、われわれが持っている直感・信念を明確に意識させるために役立つ道具として提出されている」と。
 これって何かにとても似ていませんか。そう、経済学で言えば理論モデルを作ってそこから問題を考えることと似た構造です。

 経済学では、例えば、需給曲線でいえば、様々な人間の持つ要素を捨象して、合理的に物事を判断する経済人というありえない人間像を前提にして、さらに、価格以外の条件を一定(セトリスパリブス)としたグラフをつくる。そして、その知見をもとに今度は様々に条件を変化させ、現実の問題に接近させてゆく。
 もちろん、哲学や倫理学と経済学では方向性は明確に違います。哲学や倫理学での思考実験は、本質的な部分を明確に意識させるための道具ですが、経済学の理論モデルは現状の分析する出発点のための道具ですから、方向性が違います。とはいえ、経済学でも扱われている思考実験は、次期の「公共」の学習指導要領解説でも登場しています。

 その一つが、囚人のジレンマです。また、共有地の悲劇、最後通牒ゲームもそれにあたるでしょう。いずれも経済学のなかで登場する事例です。最後通牒ゲームは最近の行動経済学での問題になっています。
 経済学での思考実験は、得に、経済倫理学の書物でたくさん取り上げられています。ちょっと古くなりますが、竹内靖雄さんの『経済倫理学のすすめ』中公新書、には「問題」という形で多くの思考実験の例がたくさん登場しています。
一つだけ例をあげておくと、「A,B,Cの3人の社会の状態が10対2対1であるとして、それを8対3対2に改善することはよいことか」という問題があります。この種の問題は、いきなり格差がどこまでゆるされるかという問いではなく、単純なモデル社会を想定してそこでの分析から、どんな社会が望ましいか、人間にとって幸福かを考えさせる思考実験です。さらに、福祉国家における再分配問題となり、政策選択に問題がひろがります。

 夏の経済教室では、「問い」も話題になりました。生徒の頭、価値観を刺激する「問い」を現実のなかから探しだし、思考実験として教室で生徒になげかける。素材は身近にたくさんころがっているはずです。その意味では、思考実験はこわくないし、哲学・倫理学だけでなく、経済教育からのアプローチが期待される分野と言えるでしょう。
 それにしても、おもしろいことに森村さんも竹内さんもどちらもリバタリアンといって良いでしょう。ということは、思考実験とリバタリアンはどこか親和性があるのかもしれませんね。それはなぜかを考えるのも思考実験になりそうです。

(メルマガ 117号から転載)

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