執筆者 新井 明

1 そもそものきっかけ
来春の経済教室では、東京大学の松島斉先生の『サステナビリティの経済哲学』をベースとした講演と授業実践の報告を予定しています。その予習として岩波新書の本を読んでいて、ひっかかったところがありました。それがスミスの評価です。
 『サステナビリティの経済哲学』では、第1章に「見えざる手をこえる」という節があり、最後の第5章には「スミスの共感」という節があり、最初と最後にスミスを扱っています。このなかでスミスには厳しい評価を下して、「市場主義イデオロギー」の源流として位置づけられています。たしかにそういう面はあるけれど、スミスには厳しすぎるのではというのが筆者の感想でした。また、松島先生のスミス理解は、これまでの教育、特に高校での教育の影響を受けているからなのかもしれないという疑問も浮かびました。
 ここから、筆者のスミス・リサーチが始まりました。

2 経済学者の教科書批判
 実は、スミスを、『国富論』、利己的個人、見えざる手=市場メカニズム、自由放任、小さな政府という流れで評価するというのは、高校教科書ではこれまでずっと書かれていて、それがスミスへの「誤解」のもとであり、理解不足のもとであるという指摘が以前からありました。
 例えば、戦前からのスミス研究者の故高島善哉氏は1968年の著『アダム・スミス』(岩波新書)という本で、次のように言っています。
 
アダムといえば『国富論』、スミスといえば自由放任主義といった○×式の教え方や受け取り方はまっぴら御免である。…私はためしに現在広く使われている世界史と倫理・社会の教科書を一つ二つ調べてみた。案じたとおり、スミスは自由放任主義の大御所となっている。遺憾というよりあきれるほかない。(同書、p6)

 最近では、根井雅弘氏が多くの自著でスミス=見えざる手=自由放任主義という理解の批判を続けています。そのうちの一冊、2019年刊行の『ものがたりで学ぶ経済学入門』(中央経済社)からあげてみます。

  高校の「政治・経済」の教科書では、スミスは、政府に国防や治安維持などの必要最小限の役割しか認めない「夜警国家」観に基づいて、政府が経済活動に介入することを排した「自由放任主義」(レッセ=フェール)を説いた、というようなことが書かれていた。スミスの「見えざる手」という言葉も、自由放任主義を象徴する言葉として紹介されていた…(同書p18)…スミスの思想を自由放任主義と割り切るのは、著しい「矮小化」だと思うよ。(同p24)
 
大竹文雄先生も、教科書のスミス記述を批判されています。そのうちの一冊、2024年6月に刊行された『いますぐできる実践行動経済学』(東京書籍)から引用します。

  大竹:…高校の政治経済の教科書にも掲載されている有名な著書『国富論』で、アダム・スミスは何を主張したのでしょうか。
  生徒:「自由放任」にすれば世の中はうまくゆくということです。
  大竹:そうですね。一般に知られているのは、市場での競争によって「見えざる手」に導かれてものやサービスが人々のもとに行きわたり、みんなが豊かになるということです。実際、高校の教科書にも、競争が機能して世の中はうまくゆくというようなことが書いてあるはずです。アダム・スミスは「小さな国家」を主張したとか、当時支配的だった地主階級ではなく資本家(企業家)の利害を代弁したとかいうことを書いてある教科書もあります。しかし、実は、アダム・スミスは世の中に「独占」が起こっていると言うことを強く批判したのです。…(同書p18~20)

 どうも、昔から現在まで、教科書のスミス記述には問題があり、それを内面化してしまったスミス理解にはかなりの誤解があると経済学者は考えているようです。

3 まずは教科書を比較して読んで見よう
 教科書を使う側から言えば、検定教科書なんだから、正確でなければ困るということになります。また、入試問題は教科書から作成されますから、教科書の記述が経済学者の理解と齟齬をおこしているとなるとどうにかしてくれと言うことになります。
 また、こんな昔から指摘があるのに、それがどうなっているか、もし修正されていないとするとその理由や背景を捜さなければいけなくなりそうです。
 今回は、そのうち後者の当の教科書の記述が現在どうなっているかを比較して検討してみようと思います。ちょっとひねって、今の教科書はこんな記述がされているよという原文を紹介して、それがどの会社のものかをクイズ形式であててもらおうというしかけにしてみました。
 「公共」は数が多すぎるので、「政治・経済」と「倫理」の両方を出している会社の本をとりあげてみます。なお、A社からE社は、東京書籍、第一学習社、実教出版、清水書院、数研出版のいずれかの社です。また、本文から本稿に関連するスミスの部分を抜き書きしています。

○A社「政治・経済」
・スミスは…、分業によって多様化する生産活動は市場という「見えざる手」によって調整されるため、自分の利益を求める自由こそが調和的な社会を達成するとされた。
○A社「倫理」
・スミスは『国富論』において、個人の幸福の追求が神の「見えざる手」に導かれ、社会に幸福をもたらすことを主張した。
・スミスは『道徳感情論』において、道徳の原理は「公正な観察者」の視点からの共感にあると説いた。

○B社「政治・経済」
・…重商主義政策を批判し、各人が自由な経済活動を行えば、神の「見えざる手」によって社会の調和が生まれると説いた。…スミスの国家観は夜警国家観とも呼ばれ、「安価な政府」(小さな政府、消極国家)が理想とされた。また、政府は民間の経済活動に保護も干渉もせず、自由放任(レッセフェール)を取ることが最良とされた。
○B社「倫理」
・18世紀後半の産業革命期のイギリスでは、自由放任(レッセフェール)の思想がひろまっていた。その代表者とみなされたのはアダム・スミスである。彼は自由な経済活動が神の「見えざる手」によって社会の富へ導かれると主張したからである。ただし、スミスは厳密な意味で自由放任主義者であったわけではない。彼は自由競争に対して「正義の法を犯さない限り」という制限を付けるのを忘れなかった。

○C社「政治・経済」
・スミスは…私利、私欲を追求する個人や企業の経済活動は社会の秩序を損なうどころか、かえって「見えざる手」に導かれて公共の利益を促進し(予定調和)、市場での取引は遠方の見知らぬ人々を結びつけ、地域共同体を超えた「大きな社会」をつくりあげる事を可能にすると説いた。
・市場に対して大きな信頼をおいたスミスは、国家の市場への介入を最少にし、国家のなすべき義務は国防、司法、公共事業の三つに過ぎないと論じた。このようなスミスの国家観はのちに、「夜警国家」「小さな政府」などとよばれ、19世紀における資本主義の基本的な国家観となった。
○C社「倫理」
・…アダム・スミスによれば、交換をするという自然な傾向性に導かれて、人々は労働とその成果を交換し、その結果、市場が生まれ、商品が適切な価格で取引されるようになり、生活改善に役立つ秩序が形成されるという。私益の自由な追求が社会一般の利益を生む様子を、スミスは「見えざる手」に導かれてと描いている。
・アダム・スミスは各人の私益の追求は、神の「見えざる手」に導かれ社会全体の利益を増進すると考えた。これはスミスが人間の共感能力を高く評価した結果であり、…

○D社「政治・経済」
・アダム・スミスは市場での自由競争によって経済が調整され、結果的に社会の富が増えてゆく機能を神の「見えざる手」と表現した。…こうした自由放任主義(レッセフェール)や「小さな政府」の考え方は、19世紀における資本主義の基本原理となった。
○D社「倫理」
・アダム・スミスは個人の経済的な自由を主張した。そのうえて、個人の利益と社会の利益の調和を唱えた。個人が自分の利益を自由に追求すれば、意図しない結果として社会の利益は増大する。スミスは、このことを「見えざる手」と表現した。ここから「自由放任(レッセフェール)」を唱える経済的自由主義が生まれた。ただし、スミス自身は自由放任を唱えたわけでなく、個人は法の範囲内で自分の利益を追求すべきと考えられ、そして人間は第三者(公平な観察者)からの共感を求めて、自己を批判するようになると論じた。

○E社「政治・経済」
・アダム・スミスは『国富論』で人々が利己心に基づいてみずからの利益を追求しても、市場価格が「見えざる手」となって需要と供給を調整し、結果的に社会全体にとってプラスとなることを主張した。彼の考え方によれば、国家の役割は個人や企業が自由に追求できるような環境を整えることだけに限られる。このような国家観は「夜警国家」や「小さな政府(安価な政府)」などとよばれている。
○E社「倫理」
・18世紀後半、産業革命をなしとげたイギリスでは、自由競争に基づく資本主義が急速に発展した。そこでは各人が自由に自分の利益を追求すれば、あたかも神の「見えざる手」が働いているように、結果的に社会全体の利益(公益)が増大していくという考え方受け入れられるようになった。この考え方によれば、国家の役割は個人や企業が自由に利益を追求できるような環境を整えることに限られる。自由競争によって、社会全体に自ずから秩序が生まれ、富が蓄積されていくのである。

4 「見えざる手」「自由放任」を一人歩きさせた「犯人」は?
 ここまでの教科書の比較読みから何がわかるのでしょうか。
 一つは、会社によって記述がかなり違うということです。もう一つは、「政治・経済」と「倫理」での書き方が違う会社があるということです。また、経済学者の教科書は間違ったことを教えているぞという批判に対する改善は微妙というところでしょう。
 ちなみに、『国富論』では「見えざる手」が登場するのは一カ所だけ、「自由放任(レッセフェール)」という言葉は一カ所も使っていません。それが今回紹介された教科書にどう反映されているか、いないかも注目してほしいところです。
 ここまでの紹介から浮かび上がる問題は二つです。これらの現在の教科書で学んだ生徒は、どんなスミス像を描くだろうかという問題です。もう一つは、教科書の記述の背景にある、スミス理解の変遷をたどる必要があるのではという問題です。
 前者は、これから数年後、場合によっては数十年後に出てくるでしょう。従来のスミス理解がどこまで変化するかです。
 後者は、背景へのリサーチ、推理小説風に言えば「犯人」さがしになります。それには、スミス以降の西洋思想史への理解が必要になります。日本にスミスが紹介されてどのように受容されたか、「誤解」されたかも調べてみる必要があります。教科書で言えば、これまでどんなスミスが紹介されてきたのかのリサーチももとめられるでしょう。
 この小文ではとてもそんなことまではできませんし、それが授業にどう役立つのという疑問を投げかけられそうです。
 それでも、こんな疑問に答えてみようとするのは、時間がたっぷりあるリタイア人間である筆者にぴったりなのかもしれません。調べはじめて、何人かの「犯人」が浮かびましたが、実証するには素人探偵の筆者ではまだ無理かというところです。
 今回、松島先生のご本のスミス像から派生して、どうやらとんでもない問題意識をかかえてしまったようです。今回はその序説の序説ということで書かせていただきました。申し訳ありませんが、クイズの解答はいたしません。高校なら中学校とちがって見本本がごろごろしていると思います。ぜひ、記述がどこの社なのか、探してみてください。
 スミス以外にも似たような「誤解」が書かれている人物がいたり、出来事があったりするかもしれません。そんな人物や事項の教科書の記述に着目することで、授業の内容が改善されてゆくヒントが得られるかもしれません。

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