① なぜこの本を選んだのか?
 社会の仕組みを見ようとするとき,教師と経済学者の視点は何が異なるのでしょうか?見る角度が異なるのでしょうか?それとも見るときの道具が異なるのでしょうか?この違いを体験することで、授業づくりに新たな視点を加えることができると考えて選びました。

② どのような内容か?
(1)アングナーとはどのような人?
 著者のエリック・アングナーは米国籍の経済学者、哲学者です。
 年齢不詳です(2025年時点で50歳くらいではないかと言われています)。  
 科学と疑似科学の境界について研究をしていたある日、経済学は科学を装っているのではないかと疑い、経済学の博士課程で研究をはじめます。ところが、研究をはじめると経済学という学問は役に立つアイディアであふれていることに気付くのです。経済学のどのようなところに関心を持ったのでしょうか?

(2)経済学、政治学、物理学、医学・・・
 アングナーは、科学には2つの種類があると言います。
 1つは「光を求める科学」で、もう一つは「果実を求める科学」です。経済学は後者になると整理しています。では、どのように果実を求めるのでしょうか?
 経済学は、世界がどう動いているのか、そしてその世界をどう変えるのかを問うています。この問いを追究するときに経済学者はいろいろな道具を使います。どのような道具を、どのような考え方を用いて使うのでしょうか?

(3)富む人と貧しい人は何が違う?
 経済学者は世界の動きをとらえるときに分析的平等論という考え方を前提にしているそうです。これは,科学は全ての人を本質的に同じものとして扱うべきだとする考え方です。
 この考え方を前提にすると,経済学者は富む人も貧しい人も本質的には同じだととらえることになります。貧しい人が合理性に劣っているのではないという見方です。経済学者は、この貧しい人たちが存在する世界をどのように変えようとするのでしょうか。
 アングナーは、再分配と自由市場は両立するということを示すため、ランダム比較試験という道具を紹介してくれます。教師が「政府は貧しい人にお金をわたす」という政策について授業で扱う際に有効なヒントを示してくれます。
 ところで経済学は政策は考えるけれども一人ひとりの人間について何か役に立つことを教えてくれるのでしょうか?

(4)経済学は個人の問題も考える
 経済学者は2つの訓練を積み重ねています。1つは「信頼できる情報か、信頼できない情報か」を選り分ける訓練です。もう一つは、因果関係を導く訓練です。
 この訓練を重ねている経済学者は、私たちに生活のうえで役立つ知識を示してくれるのでしょうか。アングナーは「子育て」を例にして「もっとよい親になるにはどうしたらよいのか」という問いに答えてくれます。
 子どもの行動と態度がどのように決まっていくのかというアングナーの説明は明快です。そして子育て中の親が合理的な意思決定をするために、何に注目するべきか。経済学者が用いる道具とともに紹介されています。
 経済学は未来を予知する学問ではありませんが、「ものごとが説明されるようになること」そして「有益な意思決定ができるようになること」を目指しています。社会全体の問いに立ち向かうと同時に個人のことも考えているのです。

(5)経済理論と政治理論の見方の違い
 アングナーは、社会全体の問いとして、気候変動を解決するための経済学者による提案をとりあげています。
 ここで経済学者と政治学者の視点の違いを示すことで、経済学者の思考法を私たちに伝えようとしています。政治学者は理想的な社会という視点からものごとを分析しますが、経済学者は我々の生活空間から分析を始めるというのです。
 そして我々に発信するメッセージが不安をあおるものであったら効果は逆効果だといいます。気候変動を経済学者の視点からとらえながら炭素税や合理的選択論を語るのです。
 それにしても、私たちは環境問題がなかなか改善しないという状況に直面しています。この問題の背景にどのような仕組みが潜んでいると経済学者は考えているのでしょうか?

(6)非公式なルールに従う人びと
 アングナーは人間の行動を支配しているのは何かを突き止めようとします。
 注目したのは、人びとの行動を支配している非公式なルールです。本書ではこれを「社会規範」と表現しています。人間は、何が正しくて、何がまちがっているのかを判断する際、個人の信念よりも社会規範を優先するというのです。
 紹介者は行列のできるラーメン屋さんに並ぼうとするときに、気難しい店主が定めた決まりを探そうとしている自分を思い浮かべました。
 アングナーによれば、人間の行動を変えようとするならば、相手に情報を与えるだけでは十分ではないと言います。人間の行動を変えるには、その人に「行動を変える理由があるかどうかを問う」必要があるというのです。
 経済学者の言葉では、このことを「均衡を求める」というのだそうです。「きんこう?」。これが経済学者の思考法を理解するということなのか、と感じさせられる一文です。

(7)経済学者が燃えるとき
 経済学者は非効率性を見つけるとがぜん燃えると書いてあります。本書ではパレート非効率という言葉を用いて説明しています。
 そして、経済学者はどのような問いを立てているのかを紹介しています。それは、今ある市場を与えられたものであるととらえ、その与えられた市場がどのくらいいいのか(それとも悪いのか)という問いを立てているそうです。「何が起きてほしいのか?」ということを思考の出発点にしていないことが示されています。
 このような思考法をもつ経済学者ですが、皆同じような思考法をもつと、経済学者同士の論争なんて起きないのではないかと思ってしまいますが、実際のところはどうなっているのでしょうか?

(8)論争の例 「人間にとっての幸福度は頭打ちになるのか?」
 経済学者のあいだで論争になっていることがあげられています。
 それは「幸福度は頭打ちになるのかどうか?」という問題です。幸福度にピークがあるという考え方もあれば、そのようなものはないという考え方もあります。
 この論争を考えるためにアングナーは3つのヒントを提示しています。その中の1つを紹介します。
 ある日二人でキャンプに行ったところ熊に出会ってしまったというお話しです。一人の人が靴の紐を結び直しました。するともう一方の人が「おい、熊と走って勝てると思っているのか?」と問いかけます。さて、靴紐を結び直した人は何と答えたのでしょうか?

(9)わたしの判断は適切なのか?
 経済学者がもつ思考法の一端が見えてきました。
 ちょっと耳が痛くなる話ですが、アングナーは「専門領域で働く人(銀行員、企業幹部、土木技師)は自信過剰なところがある」と指摘しています。ということは「教師は自信過剰になりやすい」とも解釈できます。
 教師が適切な判断をするために経済学は何を教えてくれるのでしょうか。本書は3つの戦略を紹介しています。行動経済学が教える自信過剰になりにくい方法は教師に多くのことを教えてくれます。

(10)経済学者とお金持ち
 いよいよ本書も終盤にさしかかります。ストレートに「お金持ちになるには」経済学者はどのような思考方法をもっているのかというテーマが登場します。今月紹介するもう1冊の本のタイトルにそっくりです。
 アングナーはここで4つのアドバイスを示しています。さらに「道ばたに500ドル札が落ちていたら」というたとえ話をきっかけに、もうけ話に対する考え方が紹介されています。
 経済教育の視点では「マクドナルドとA&W」の広告についての事例が授業づくりに結びつきます。A&Wはマクドナルドとの競争に勝つために牛肉の使用量を増やしたのに、お客さんの勘違いで売上げが伸びなかったという例です。「数値をパッと見ることによる誤読の例」として授業で取り上げたら生徒は注目すると思います。

(11)囚人のジレンマを解決したのは?
 ここまで、個人の問題から社会の問題に至るまで、様々な大きさの問題について経済学者がどうみるのかを紹介してきました。
 見方の1つには市場が解決するというものがあります。同様に国家が解決するというものもあります。アングナーは最後にコミュニティというもう一つの主体をあげています。 囚人のジレンマに関する問題を解決する主体としてコミュニティがあげられているのです。オストロムの説を紹介しながら、市場と国家を超えた集まりとはどのようなものなのか。「民営化して市場に任せる」という考え方をオストロムはどう評価しているのかを説明しながら経済学者の思考法を紹介しています。

(12)目次の紹介
 以上が、経済教育の視点から一教師が分析した本書の内容です。目次の構成は次のようになっています。
 序 章:世界を救うには
 第1章:貧困をなくすには
 第2章:心を整えながらしあわせな子どもを育てるには
 第3章:気候変動を食い止めるには
 第4章:悪い行動を変えるには
 第5章:必要なものを必要な人に届けるには
 第6章:しあわせになるには
 第7章:謙虚になるには
 第8章:お金持ちになるには
 第9章:コミュニティをつくるには
 第10章:終 章

③ どこが役に立つのか?
 「公民」の教科書は多くの学問領域を背景に記述されています。その中のひとつである「経済学」の見方や考え方を書いた研究者はどのような思考方法で世の中を見ているのでしょうか。その手がかりをつかめそうな一冊です。
 授業で紹介できるエピソードに出会うことができます。そして経済学習をとりまく大きな磁場のようなものを受け止めることができると思います。

④ 感 想
 経済学者がもつ思考法の一部に触れることができました。世の中をみる視点、どのような事象に敏感なのかを知ることで授業づくりが変わるのではないかと思います。
 教師は、学問が形成する大きな流れを背景に毎時間の授業を創りつづけます。流れをつかまなければ授業そのものが澱んでしまうかもしれません。
 躍動感あふれる授業案を考えるために、本書タイトルの冒頭が「憲法学者」、「政治学者」、「哲学者」となった書籍(たとえば『憲法学者のすごい思考法』のようなもの)の出版を心待ちにしています。

                         (神奈川県立三浦初声高等学校   金子 幹夫)

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