執筆者 新井明
前回が「音読」のすすめであったのに対して、今月は「手書き」のすすめです。
「手書き」は、暗記のための手段として考えられていますが、それだけでなく、文章だったら書くことで文脈をとらえながら理解を深める方法です。また、グラフや統計類であれば、その意味を自分で考える手がかりが得られる方法です。
例えば、江戸時代の蘭学者たちは、入手した原書を写し取って学んだということが、『福翁自伝』などにも書かれています。福澤は、物理書を写し取ったことで「私などが今日電気の話を聞いておおよそその方角がわかるのは、全くこの写本のお陰である」と言っています。
そんな手書きが消えていったのは、なんといってもデジタル機器の登場、具体的にはパソコン、携帯、スマホの登場でしょう。
筆者が、手書きがすたれはじめたなあと実感したのは、定期テストの時間割の教室掲示の時です。多くの生徒たちが掲示の前に集まり、書きうつしている中で、携帯についているカメラでパチリとやった生徒を見たとき、時代は変わるぞと思いました。もう10年近く前の出来事です。 それ以来、時間割を写メする生徒は増え、ついには黒板まで写メしようとする生徒が出てきました。
ほぼ同時期に、プレゼンテーションではパワーポイントが当たり前になり、手書きの資料やグラフを使っての発表は急速に減ってゆきました。
アナログからデジタルへの変化という意味では進化なのでしょうが、確実に読解力が落ちてきたと感じます。ただし、これは実感でしかなく、近頃はやりのエビデンスベースの話ではありません。
経済学習では、手書きはグラフ作成、データの読み取りで効果を発揮します。
グラフに関しては、例えば、需給曲線のグラフでは、縦軸と横軸に何がくるのかを手書きだとはっきり認識することができます。それが関数であることも自分でデータをプロットすることで理解することができるはずです。そうすると、通常は横に読む需給のグラフが、縦に読むことで提示価格の考え方に気づき、さらに余剰概念に拡張することができ、市場メカニズムの理解が深まります。
データに関していえば、手書きをすることで、数値をどのように「見える化」してゆくのかを考える必要に迫られます。例えば、財政などで棒グラフを使って政府支出項目を年次比較させるグラフを自分で作ってみると、棒グラフより本当は面積グラフで変化をたどらないと支出項目の比率の比較はできないことに気づいてゆくはずです。そういう手作業を通して、財政だけでなく複雑な経済現象を自分のあたまで整理して理解するという芽がうまれてくるはずです。
手書きには、時間がかかります。表計算ソフトを使えば、簡単に計算もグラフも作れてしまいますが、それが事象を本当に理解することなのかは、一度振り返ってみると良いかもしれません。
マンキューもスティグリッツも、アメリカの経済学のテキストでは、冒頭部分で、経済のグラフの作り方や読み方、データの読み方が解説されています。日本の教科書でこのようなものが少ないのは、それを書かなくとも前提として理解しているといことがあったのでしょう。でも、デジタル化、手書きの消滅化が進行する日本でこそ、この種の配慮が必要になってきているのではなかろうかと思うことが多くなっています。とはいえ、この傾向日本だけでなく世界中で進行していますから、読解力の衰えは世界的な課題なのかもしれません。
ちなみに、最近は年賀状が減るだけでなく、宛名も含めてすべてパソコン作成が目立ってきました。今年受け取った年賀状には差出人の名前のないものもあり、読解力と関係はないかもしれませんが、教える側(おとな)の読解力も低下しているかもしれませんね。
(メルマガ 108号から転載)
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