■ 吉川洋『日本-没落か再生か時代精神とアニマルスピリッツ』新潮社2026年

① なぜこの本を選んだのか?
 「アニマルスピリッツ」・・・? 本コーナーで最近登場した用語だなと、すぐに思い出しました。メルマガNo.192で取り上げました、浅子和美 飯塚信夫 篠原総一 編『新入門・日本経済』有斐閣 2024年 に登場する用語です。
 いろいろな場面で経済学者が繰り返し用いるこの用語に触れることで、エコノミストがどのように経済を捉えているのか? 文字記号を超えたところで感じ取ることができるのではないかと思い本書を選びました。

② どのような内容か?
1.国がどこに向かうのかを見る方法
 本書は「今の世界や日本は、ひょっとすると羅針盤を欠いた船なのではないだろうか」という問いから始まります。
 「羅針盤を欠いた船」という表現を、私たちはどのように感じ取ることができるのでしょうか? その見方には、どのような方法があるのでしょうか? そして、その見方を当てはめて日本を見ますと、何が分かるのでしょうか?

2.私たちは変化に気がつかない?
 本書には「時代精神」という用語が登場します。 吉川先生は、この時代精神なるものは空気のようなものだから、私たちはその変化に気がつかないと指摘します。
 知らないうちに、その時代に生きる人びとが持つ精神が変わるのでしょうか? それを察することは、人間には無理なことなのでしょうか? そもそも時代精神なるものをつくる原動力は、どのようなものなのでしょうか?

3.時代精神を動かすものを見つける
 その原動力を探す手がかりの1つに「企業」がありそうです。民間企業は資本主義経済を動かす主役です。ケインズは企業の本質を「アニマルスピリッツ」と表しました。 この時代精神は、時と共に変容するようです。正体は何だか分かりません。
 この変化をつかみ取ろうとした学者のひとりに森嶋通夫先生がいます。変化をつかみ取るときに用いた方法は、人間を土台と考えるというものでした。 経済は、この土台の上に建てられたものにすぎないと解釈するのです。
 人間が土台ですから、思考はやがて「教育」に向かいます。教育がしっかりしていないと時代は悪しき方向に向かうと指摘しているようです。

4.一国の興亡を図る方法
 本書は、この考え方を紹介した後、一国の興亡を、GDPと株価に注目して図るという方法を教えてくれます。
 日本企業は1989年には世界のトップ30のうち21社が並んでいましたが、2025年になると1社も存在しないという事実を示した(トヨタが50位に入るのみ)上で、日本の没落を防ぐための手立てとして「分厚い中間層をつくる」という考え方を紹介します。

5.アメリカの日本的経営
 日本は前節で登場した「分厚い中間層」を形成することはできたのでしょうか? 日米の歴史を振り返りながら、そしてトマ・ピケティの『21世紀の資本』を紹介しながら日本の「一億総中流」について考察をすすめていきます。
 印象深い記述として、戦後の米国大企業の経営者たちは、経営の在り方について語った内容が、ほぼ「日本的経営」であったというところでした。

6.日本の中間層が崩壊した原因
 再び、日本の(分厚い)中間層についての記述に戻ります。
 日本のジニ係数は、一億総中流の時代に最小値を記録します。ところが80年代から一貫して上昇を続けます。原因は「高齢化」です。
 高齢者は健康・所得・資産のどれをとってもグループ内における格差が大きいものです。高齢社会は、格差社会に陥りやすいと指摘しています。
 「一億総中流社会」が到来した後に格差が拡大したことは、日本社会を深くむしばむことになるのです。

7.国の衰退を感じる人口減少という事実
 原因は「高齢化」という指摘がありました。そこで人口について見てみましょう。現在の国の衰退をわかりやすく感じさせてくれるのが人口減少です。
 読んでいて授業づくりに役立ちそうな記述が、ここで2つあります。1つはロバート・マルサスの『人口論』の記述です。もう一つは、日本の出生率低下についての記述です。
教科書記述を思い出しながら読むことで、一層深い学習内容の形成につながると思います。

8.教えるヒントがたくさん
 教科書記述に関連することとしてもう一つ「貿易」についてとりあげます。ここでは、リストが唱えた保護貿易論と、トランプが主張している保護貿易の違いが明確に示されています。
 自由貿易と保護貿易について教える時に、教科書に書かれていることと実際の世の中で起こっていることを整理して教えないと、生徒の知識が混乱します。本書で貿易の考え方について整理することができます。
 続けて、マルサスとドイツの経済学者ブレンターノの学説について教えてくれます。ブレンターノによる、出生率の低下が教育や所得水準の高い家庭で見られたという指摘に注目しました。
 そして、日本において、江戸時代後半に経済成長があったことが確認できるのに、人口が増加していない謎について教えてくれます。答えは本書の中から読み取ってください。
 さらに人口減少と女性の社会進出の関係についても整理しています。農村地帯では、男性も女性も働きます。そこでは伝統的な子育ての仕組みが確立されていました。現在の企業勤め中心の社会には、確立された子育ての仕組みがないという課題をあげています。

9.一番印象に残りました
 次は、紹介者が最も印象に残ったところの1つです。
 それは、ものの見方についてです。人口が減るのだから経済成長できないと考えるのではなく、「1人当たり所得」や「1人当たりGDP」という視点で見る必要があることを教えてくれます。これを決定づけるのがイノベーションなのですね。
 次です。主流派経済学が用いる「均衡」という言葉を、どのようにして理解すればよいのかを、お椀とボール球を用いて、ものすごく分かりやすく教えてくれます。
 さらに、本書冒頭にある「時代精神」について取り上げています。戦後の経済成長を支えた精神とは? そして 戦後ある時期まであった「時代の精神」とは何だったのでしょうか? 戦艦大和でのエピソードを紹介者は繰り返し読みました。

10. アメリカが変わった
 いよいよ終盤に近づいてきました。吉川先生は、アメリカと日本の歴史における変容を大きく捉えて、私たちにその「変化」を伝えてくれます。
 はじめに、アメリカの大きな変化を教えてくれます。ニューディールに始まる40年間の繁栄、そして福祉国家について語ります。次に、1970年代に起きた大きな変化を取り上げます。大恐慌の記憶が風化されたころの出来事です。
 登場したのはミルトン・フリードマン。「選択の自由」を合い言葉に新自由主義のイデオロギーが広がっていきます。

11. 日本も変わった
 アメリカが変わると共に日本も変わっていきます。日本では、戦争体験を背負い、戦後の時代精神を担った戦中派が退場していきます。そしてアメリカから新しい企業理念がやってきます。「会社は株主のもの」、「企業の目的は儲けること」という考え方です。
本書は一貫して、時の変化は外から与えられるのではなく、人の心が変わりそれが新しい時代をつくり出すと主張しています。日本は停滞から脱却できるのでしょうか?

12.大切なものは数字で表すことが難しい
 着眼点は、「何を見るか」です。
 本書は1980年頃から日本経済が変調をきたし、停滞から脱却できないのは、日本人が変わったからだと言います。人々の行動は「数」に律せられるようになったからです。
 サン・テグジュペリ『星の王子さま』の引用が印象的です。同書では、キツネが王子さまに「かんじんなことは目に見えないんだよ」というのです。
 決して数を見るのが悪いとは主張していません。「数字」に固執し、数字に振り回されることとはまったく別のことなのです。
 吉川先生は、日本経済・社会が、停滞を脱却するためには言葉の本来の意味でのアニマルスピリッツを回復しなければならないと訴えています。
 私たちは、本書から「本来の意味でのアニマルスピリッツ」をどのように説明することができるのでしょうか。今の社会を、どのように生徒に教えることができるのでしょうか。大きな宿題をいただきました。

13.本書の全体像
 以上が、本書の内容です。最後に目次を示して全体像を眺めることにします。
 はじめに
 第1章 衰退──予兆から現実へ
 第2章 格差──一度手にした「一億総中流」社会の崩壊
 第3章 人口減少が止まらない
 第4章 イノベーションの退潮 アニマルスピリッツはどこへ?
 第5章 人が変わる──歴史とは何か
 第6章 日本は衰退から脱却できるのか?
 あとがき

③ どこが役に立つのか?
 経済学者が日常の研究活動で用いている用語や概念の意味、教科書に書かれている用語の意味、そして私たちが日常生活で用いる言葉の意味という3つの曖昧な境界線が、しっかりとした「線」として見えてくる1冊です。
 今月紹介したもう1冊の渡辺 努『インフレの時代 賃金・物価・金利のゆくえ』中公新書 2026年 と合わせて読むことで、経済学者が見て分析している社会、教科書が記述する社会、教師や生徒が見ている社会という3つの窓(扉?)を感じ取ることができます。

④ 感 想
 豊富なエピソードが忘れられません。例えば、あるベテラン政治家のお話。政治家がどのようにして“賛成”か“反対”かを決めているのかを吉川先生に説明するシーン。戦時中、戦艦大和の沖縄への出陣時に連合艦隊司令部との無線のやりとりを傍受していた有名な経済学者のお話(誰なのかは本書でお読みください)。もう一人。教科書にも登場する、これも有名な人物について。もしかしたら、あと少しで東京帝国大学経済学部の先生になっていたかもしれないというエピソード。まだまだあります。面白いです。
  (金子幹夫)

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