■ ウリ・ニーズィー著 児島 修訳『インセンティブが人を動かす』河出書房 2026年
① なぜこの本を選んだのか?
本書の表紙には、タイトル・著者、出版社名が書かれていますが、それ以外に小さな文字で「Mixed Signals」と書いてありました。なぜタイトルとは異なるテキストデータが表紙に書かれているのかが気になりました。
この文字の意味が、混ざり合ったシグナル、矛盾したサインであったならば、経済を学習する生徒にとって興味深いものなのではないかと思い選んでみました。
② どのような内容か?
1.ウリ・ニーズィー先生は?
ウリ・ニーズィー先生は、カリフォルニア大学サンディエゴ校経済学部教授です。『その問題、経済学で解決できます』(共著、東洋経済新報社)でご存じの方も多いのではないでしょうか。
2.インセンティブとは?
まずは定義です。ニーズィー先生は「インセンティブとは、人が本来やらないことを行動に動機づけるためのツールである」と定めています。ここから先は、この定義を意識しながら読み進めていきたいと思います。
3. 本書の目標は?
本書の目標は、スマートなインセンティブを設計する方法を示すことにあります。「スマートな」とはどういうことなのでしょうか?
例えば、真夏の暑い日はコーラを飲みたい人が増えます。教科書には需要が上がれば価格も上がると書いてあります。そこで炎天下の中、自動販売機の前に立って「コーラの価格が上がっている」のを見てみなさんはどのように感じますか?
率直なところあまりいい感じはしません。それではコーラの販売者はどうすればよかったのでしょうか? 回答例として、暑い日に価格を上げるのではなく、寒い日に価格を下げてはどうかと示しています。これがスマートなインセンティブのイメージなのでしょう。
4.自分がどう思うか? 人はどう見ているのか?
それでは、皆さんは空き缶をリサイクルセンターに運ぼうとしている人を見かけたとき、その人のことをどのように思いますか? 5秒間考えてから次の一文をお読みください。
それでは、空き缶のリサイクルをセンターに運ぶとお金がもらえるというインセンティブ制度があったとしたら、その人のことをどう思いますか? 先ほどと違いはありますか?
この例からもわかるように、本書で考えるインセンティブはお金のことだけではないようです。私たちは「シグナルの相互作用」について考えているのです。
この「シグナルの相互作用」に関連して、ここから先は授業づくりに役立つ記述でいっぱいです。いくつか紹介します。
5.お誕生日プレゼント
皆さんが、どなたかにお誕生日プレゼントを贈るとします。はじめに何を考えますか?
相手が喜びそうなものは何か? を想像するのではないでしょうか。 ところが考えても迷いの連続でなかなか決まりません。
さあどうしますか? 迷った末に、考え抜いて選んだ品物を贈るという選択肢があります。一方で、考えても相手が本当に喜んでくれるかどうかはわからないので、一番欲しいものを自分で買ってもらった方がいいと考えて現金を贈るという選択肢もあります。
さあ、どのような未来が待っているでしょうか? 本書を読むと、この後におこる意外な結末を知ることができます。
6.プリウスとインセンティブ
なぜトヨタの「プリウス」は販売台数が多かったのでしょうか。どうしてホンダの「インサイト」はプリウスほど売れなかったのでしょうか?
第2世代のプリウスは、トヨタを成功に導いた重要な変更が一つありました。この変更が多くの人々の心を動かすことになります。トヨタプリウスの購入者の57%が「この車に乗ることで自己主張ができる」と回答しているのです。
いったいどういうことなのでしょうか? ワシントンポスト紙が「プリウス・ポリティクス」と表現したこの現象を読み取ってみてください。だからみんなプリウスを選んだのだということをインセンティブを用いて説明できるようになります。
7.「人からどう見られているのか」だけではないもう一つの眼
ここまで「私たちは他人からどう見られているのか?」をテーマにインセンティブを考えてきました。ところがインセンティブに関する考察には、もう1つの眼が登場します。
その眼というのは、自分が良い人間であることを示す行動を通じて自分自身にシグナルを送り、満足感を得るという眼です。
ウィーンにあるパキスタン料理のレストランでのユニークな料金の請求方法は授業で話題にできる例です。料理を食べ終わった顧客が、店にいくら払うかを自分で決定するという仕組みに、人々はどう反応するのかを生徒と一緒に考えてみてはいかがでしょうか。
8.私たちの周囲にあるいろいろなインセンティブ
私たちの日常生活は、無意識のうちに複雑なインセンティブに囲まれています。これが、表紙に書かれていた「Mixed Signals」のことだと思われます。次の例を読んでみてください。
ある経営者が「我が社は製品の質を重視している」と従業員に示したとします。一方で「たくさん生産すれば給料が上がります」というメッセージを発信したとします。従業員は混合シグナルを受信したことで経営者が想定したとおりに動かなくなるのです。
これは「質を重視しようとした時に、量をインセンティブにすると誤ったシグナルが発信されてしまう」という例です。
9. 教育現場を取り上げた例
学校に関連する例があげられています。運動部の顧問のあなたは、試合で目の前の勝利にこだわるために上級生のレギュラー陣に頑張ってもらうか、それとも来年度のことを考えて下級生に試合を経験させるかで選手たちに混合シグナルを発信してしまう事例です。
学校が、教師の給与を生徒の成績にひもづけるとしたら、どのようないいことが、そしてどのような問題点があるのかを考える場面も登場します。混合シグナルを意識しながら、この問題点を解消するための工夫を読み取ってみてください。
10. 授業創りのアイディアもあります
本文には、教室で応用できそうな実験用のゲームもいくつか登場します。例えば3人のグループを作って販売価格を設定するゲームが紹介されています。
このゲームは、ものすごく単純なものですが、その中にチーム・インセンティブと個人インセンティブが混ざっており、各プレイヤーには「ただ乗り」の機会があるという仕掛けに、生徒はワクワクするのではないかと想像しました。
11. うまくいかないインセンティブ
ニーズィー先生には、うまくいかなかったインセンティブの事例を集めるという、風変わりな趣味があるそうです。本書はそのエピソードをいくつかあげています。
保育所が子供のお迎えに遅刻した場合、保護者に罰金を科すことでどのような影響がでるのかというフィールド実験や、アメリカでシートベルトに関する安全規制が義務化されると自動車事故の数は増加したのはなぜかといった興味深い記述が登場します。
12. もらう方、とられる方・・・どちらが心を動かすのか?
人の心をうまく動かすことができるかどうかという視点で「獲得型」のインセンティブと「損失回避型」インセンティブを比較した説明がありました。
ある学校の教師が、クラスの成績が学年末までに上がれば、報酬を支払うと言われたとします。支払い方法は、学年の初めに、8000ドルが銀行口座に振り込まれ、学年末までに目標を達成できなければ、一部または全部を返還しなければならないというものでした。
報酬を勝ち取るために懸命に働くというストーリーよりも、報酬を失うことを避けるために懸命に働くというストーリーのほうがモチベーションを高めるそうです。
13.「誰かの役に立ちたい」というインセンティブもあります
ここまでのインセンティブは、人間の行動を動機づけるために報酬を用いるものでした。
ところで、人の行動を説明する要因は他にもあります。例えば「他人を助けたい気持ち」というのはどうでしょう。
高校生による募金活動を対象にした調査では、活動に対しての報酬があるかないかで「無報酬群」、「少額報酬群」、「高額報酬群」に分けて分析しました。いったいどのグループが一番寄付を集めるのかを調べたのです。結果は意外なものでした。
14. 生徒はあらゆるテストに真剣に取り組んでいるのか?
ここまで見てきますと、インセンティブは多くの問題を解決するための手がかりを示してくれることがわかります。ということは、インセンティブは早い段階で問題を診断することにも活用できるかもしれません。
私たちにとって興味深い、試験をめぐってエピソードがあげられています。生徒は、すべての試験に全力を尽くすのでしょうか?本文には、自分の成績に関係のないテストに真面目に取り組む生徒の姿と、明らかに力を抜いている生徒の姿が描かれます。
学校の多くは、生徒はどのようなテストでも全力で取り組むという前提に立っていると指摘したうえで、学力を調査する試験結果をどう解釈すべきかに言及しています。
15. 寄付したお金はどこに行くの?
早い段階での問題を診断する場面として、慈善団体の例があげられています。
ある人が、有名な慈善団体のCEOの感動的なスピーチに心を揺さぶられ、1000ドルを寄付することにしました。ところが翌日、そのCEOが飛行機のファーストクラスに座っている場面を見てしまうのです。そのある人はどのような感情を持ったのでしょうか?
この問題を早い段階で診断するために必要なプロセスは、私たちが民間企業のCEOを見る目と慈善団体のCEOを見る目に違いがあることを認識すること、そして「寄付したお金はどうなるのか?」という情報を得ることというものです。
「あなたの寄付金は全額○○に使われていますよ」の一言が、どのくらい影響を与えるのかを読み取ってみてください。
16.ちょっと怖いお話しですが
ちょっと怖いお話しも登場します。
医師は、医薬品業界から報酬を得ている場合と、そうでない場合とで、違う薬を処方するのでしょうか? ファイナンシャルアドバイザーは、特定の商品を販売することでマージンを得ることがある場合、どのような商品を勧める傾向があるのでしょうか?
両者に共通するのは、いかにして自分の心を説得するのかという点です。人はなぜ「私は倫理的に行動している」と自分に言い聞かせながら、自らのインセンティブに基づいて顧客に利己的なアドバイスをするのかを教えてくれます。ちょっと怖いお話しでした。
17. 「長続きしないんだよね」と困っている皆様
次に取り上げる話題は「習慣」です。どうしてダイエットが長続きしないのか? といった身近な話題をインセンティブを用いて説明するとどうなるのかを見ていきます。果たして運動や習慣の形成を促すために金銭的介入を行うべきなのでしょうか?
自分ひとりで行動するのがいいのか? それとも誰かと一緒の方が長続きするのでしょうか? 気分がのっているときに行う方がいいのでしょうか? それとも決められた時間に行う方が長続きするのでしょうか? 仮説を立てながら読んでみてはいかがでしょうか。
18.インセンティブで社会を動かす?
ここまで、インセンティブを個人の枠組みで捉えてきました。最後は、この枠組みをコミュニティレベルの枠組みで捉えてみます。舞台は東アフリカです。
マサイ人には、ライオンを殺すという長年の伝統があります。家畜を守ること、そして槍でライオンを殺すことは、若者の通過儀礼であることが背景にあります。一方で、近年ライオンの数が激減しているという状況があります。
家畜を守ること、通過儀礼に意味を持たせることといった難題に対して、インセンティブを用いることがどのくらい有効なのかを知ることができます。
どのようなインセンティブがマサイ人というコミュニティレベルでの行動を変容させることができるのでしょうか? この事例も生徒と一緒に考えると印象に残る授業の1つになりそうです。
19.本書の全体像
以上が,本書の内容です。最後に目次を示して全体像を眺めることにします。
第1部 シグナルはいかにして市場を制するか
第2部 混合シグナルを避ける
第3部 インセンティブはいかにストーリーを形づくるか
第4部 インセンティブを使って問題を特定する
第5部 インセンティブで習慣を変える
第6部 コミュニティが文化的な悪習慣を変えるのを支援する
③ どこが役に立つのか?
生徒にとって身近な事例が多く取り上げられています。さらに、日常生活からは見えにくい部分も、想像しやすい記述で私たちにイメージを伝えてくれます。
本文中に登場する“実験”のうち、いくつかは教室に合わせて再加工することで、授業に用いることができそうです。経済学習に必要な「インセンティブ」という概念を、教師と生徒で共有するにはどうしたらよいのかという問いに多くのヒントを与えてくれる1冊だと思います。
④ 感 想
テストに関する記述が印象に残りました。なぜ生徒は真剣にテストの取り組むのでしょうか。 自分の成績のため? 学校のため? 都道府県のため? テストをめぐっていろいろなインセンティブが存在していることがわかります。テストを真剣に受ける生徒もいれば、なかなか取り組んでくれない生徒もいます。生徒は皆、テストに全力で取り組むのだという前提について考えさせる記述が印象に残っています。
(金子 幹夫)
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