■ 内田由紀子『日本人の幸せ―ウェルビーイングの国際比較』中公新書2025年

① なぜこの本を選んだのか?
 公民科を教える教師は「幸福・正義・公正」という枠組みを意識しながら授業案を考えます。先月号で紹介した『たとえば『自由』はリバティか』では「正義」についてどう解釈できるのかを考えました。今月は「幸福」をテーマに皆さんと考えてみたいと思い本書を選びました。

② どのような内容か?
1.内田由紀子先生の研究は?
 内田由紀子先生は京都大学人と社会の未来研究院教授です。専門は社会心理学、文化心理学で、特に幸福感や対人関係の比較文化研究をすすめています。関心があるのは「文化とこころ」の関係です。
 
2.ウェルビーイングと幸福の違い
 本書の中心語である「ウェルビーイング」は、日本語の「幸福」と何が異なるのでしょうか? そんな問いかけから考察がはじまります。
 「ほら、これが幸福だよ。他の人と比較してみよう」と手に取って見ることができない「幸福感」のあり方について、これまでの文化心理学の研究成果をもとに明らかにしていきます。

3.文化心理学?
 文化心理学は「心」と「文化」という難しい現象を解明しようとします。例えばアメリカでサンドイッチやさんに行くとパンの種類から焼き加減、トッピングまで細かく決めなければいけないそうです。一方、日本では昼に定食屋さんに行くと「日替わりメニュー」があります。常連さんは「いつもの」といって選択するエネルギーを節約します。
 「選ぶ」という心の持ち方をもつ文化もあれば、「選ぶエネルギー」を場合によっては節約する文化もあるようです。心と文化の関係をもっと知りたくなるような事例で読者を引き込んでいきます。
 
4.幸せの計測について
 そこで知りたくなった疑問は2つです。1つ目は、人が幸せを感じるのはどういう時か?2つ目は、その「幸せ」をどうやって計測するのか? というものです。
 本書は、この2つの問いに向けて日本的な概念に基づく幸福感を調査しようとします。尺度として設定したのは「他者との協調・調和」「穏やかな生活」「人並み感」でした。

5.お友達は150人?
 この3つの尺度の中にある「他者との協調・調和」に注目します。人間は、どのようにして他者と協調したり調和したりするのでしょうか? そもそも人間にはどのくらいの人と協調・調和できる能力があるのでしょうか?
 ある研究によると、人間が維持できると推定されるグループサイズは約150人だそうです。では人数が多いほど「幸せ」は増していくのでしょうか? 日本人対象の研究では、人数よりも居心地のよい関係といった「質」の方が重視されることがわかっています。

6.「主観」も計測できるようになった
 この居心地のよさという安心感は主観的なものです。これまで長い期間、幸福を計測するために用いてきた指標は「経済状態の良さ」、「安全性」といった主観とは距離のあるものでした。ここに加わった新たな指標が主観的ウェルビーイングなのです。
 この「主観的」という言葉を聞いて疑問を抱く方もいると思います。社会科学や政策領域では「主観」を数値化する試みに対して懐疑的な見方が根強くあったからです。
 しかし、近年の心理学的手法の進展や測定技術の洗練、そして膨大な国際データの蓄積により、主観的指標が客観的指標に加わるようになったことが書かれています。
 
7.データを見るときに注意すること
 信頼できる計測値が得られることはいいことですが、国や地域といった集団単位のデータから得た傾向を、個人レベルにも当てはめてしまうという誤りに注意する必要があります。国レベルの平均値同士の関係が、個人レベルの相関関係と一致するとは限りません。
 今月紹介しますもう1冊の『歩いて学ぶ都市経済学』でも、データ解釈における注意点が繰り返し書かれています。教師が資料の読み取り方を教える時に知っておくと役に立つ記述です。

8.幸せを追いかける社会を設計しよう
 後半は、社会の設計に関する話題になります。自治体の職員が「ウェルビーイングは個人的な内容が多いので、行政として何をしていいかわからない」と尋ねた場合、どのような政策を考えればよいのでしょうか? という問いからはじまります。
 社会の設計を考えようとすると、制度や法律のことが頭に浮かびます。しかし多様な個人がウェルビーイングを追いかけるためには、暗黙のルールや集団がつくりだす雰囲気、道徳や規範意識も含めてアプローチする必要があると述べています。
 本書が示しているアプローチ方法が印象に残りました。マクロ、ミクロ、そして・・・もう一つ単位を設定しているのです。経済的分野のテキストにはあまり見られない単位の設定が心に残りました。 

9.幸福な職場と働き方の変化
 社会の設計といいますと範囲が広いので、少し狭めたところで「働く場所」と「幸福」について考えます。問いは「働く人が幸福な職場とは?」です。
 キーワードは「つながり」と「自律性」です。2025年に開催された夏の経済教室で示された「経済教育の見直し」にも登場した「つながり」です。本書ではこの「つながり」を社会関係資本と同じ意味で用いています。
 この「つながり」と「自律性」について具体的に示すため、北米型企業と日本型企業における働き方を比較しています。日本企業における働き方が2020年を境に変化してきており、「自律性」を重視する企業が増えてきたことを指摘しています。

10. 教育の場における幸福感
 会社の次は教育の場です。本書は、教育の世界でも「つながり」を重視する協調型の教育に加えて個人主義的価値観を意識する指導が広がりつつあると指摘しています。
 教育の場において主観的幸福感は何によって支えられているのでしょうか? 検討した結果、主観的幸福感を支える要素は3つだとがわかりました。「友人関係」、「自己肯定感」、そしてもう一つ。この3つ目を知ることで教師の役割がいかに重要であるかに気付きます。

    11.私たちに向けての宿題
     最後に語るのは、これからの時代におけるウェルビーイングです。
     日米比較が印象的です。アメリカでは「個人の幸福追求は、社会全体にとっても良い結果をもたらす」と考えられています。一方、日本では個人が何かを得るならば、誰かが困るかもしれないというゼロサムゲーム的な状況が意識されやすいと指摘しています。
     課題もたくさん示されています。自己肯定感の低さはどのような意味において問題なのか。集団意思決定で、個人が決めたものよりも浅はかな内容になってしまうという問題。日本社会は主体性がなくても枠組みがある程度しっかりしているため社会が何とかなってしまうという問題等々です。たくさんの宿題をいただきました。

    12.本書の全体像
     以上が,本書の内容です。最後に目次を示して全体像を眺めることにします。
     第1章 文化心理学とは何か
     第2章 幸福の国際比較
     第3章 対人関係、集団意識、自己
     第4章 主観的なウェルビーイングをどう測定するか
     第5章 幸福をはぐくむ地域コミュニティ
     第6章 働く人が幸福な職場とは
     第7章 教育現場のウェルビーイング
     第8章 これからの時代のウェルビーイング

    ③ どこが役に立つのか?
     「幸福」について解釈しようと読み続けていましたら、いつの間にか人と人との「つながり」を考えていました。本書は社会関係資本をどのように生徒に教えることができるのかという経済教育の視点から読み解くことで授業に役立つと思います。
     「幸福・正義・公正」は、公民科全体を貫く枠組みです。各単元を、この枠組みにどのように当てはめて解釈することができるのか? というヒントをくれる1冊です。

    ④ 感 想
     「何か不思議だな?」と思ったことを、どのように細分化し、再統合していくのかを感じ取れる本でした。書かれている内容が、授業づくりに役立つものから、教師という仕事に関するものまで幅広いため、緊張感を持って読むことができました。
    (金子幹夫)

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