① なぜこの本を選んだのか?
 理由は次の2点です。
 第1は、いくつかの書評欄で『その悩み、カントだったら、こう言うね』(晶文社2025)が取り上げられていたので、合わせてヘーゲルの本はいかがですか? と紹介できると思ったためです。
 第2は、著者の今野先生の不思議さに惹かれたからです。大学院でフランス文学を専攻し、ミュンヘン大学で教壇に立たれた先生は駿台予備学校の論文科講師でもあります。今野先生が難しい哲学の問題をどのように小学生や大人に教えるのかを皆さんと共有したいと思い選びました。

② どのような内容か?
1) 場面設定を紹介します
 舞台は古いマンションの一室です。ここにいるのが通称ヘーゲル先生。
 先生は、昔からいろいろな人に本の読み方や文章の書き方を教える私塾のようなものをやっています。
 登場するのは「自分の人生がこのままでいいのか」と迷いをもつ会社員、『星の王子さま』に惹かれてフランス文学を学んでいるものの、何をすればいいのか分からなくなってしまった大学2年生。アメリカに留学経験がある会社員、そして小学3年生の2人です。
 この登場人物がヘーゲル先生と夏目漱石、ホイジンガ、福沢諭吉、デカルト、ヘーゲル、プラトン、ドラッカー、ユング、エリクソンを読み解こうとするのです。どんなことになるやら、といった感じで物語は始まります。

2)今野先生と行方先生について
 今野先生は大学院でフランス文学を研究しました。ミュンヘン大学の講師を勤めたのちに駿台予備学校論文科講師として多くの受験生を指導します。そしてこの間、50年以上にわたってヘーゲル研究に取り組んできました。著書に『深く「読む」技術』(ちくま学芸文庫)があります。
 行方先生は大学で人工知能を学び、その後に建築の仕事をしています。予備校時代に今野先生と出会い、その後現在に至るまで教えを受け続けています。執筆活動もしており、本書が初の著作となります。

3) 迷えるサラリーマン、ヘーゲル先生を訪ねる
 迷えるサラリーマンが居酒屋で友人から起業の誘いを受けます。この突然の誘いを断るのですが、それでよかったのかと悩みます。そのときにふと頭に浮かんだのが、子どもの時に通っていたヘーゲル先生の存在です。
 ヘーゲル先生は、高校を卒業して以来、久しぶりに訪ねてきたサラリーマンの姿を見て、子どもだった時と同じように丁寧にお話を聞きます。そして「人生には山を登る人生と麓から眺める人生の二つがある」とお話を始めたのです。
 サラリーマンは「そんなことを言われても」と戸惑っていると、ヘーゲル先生は「どの山に登るか分からない時は、先人の肩を借りて世界を見るのがいい」と教えてくれました。古典との対話が始まります。

4) 対話というかおしゃべり
 山に登るためには、山までたどり着かなくてはなりません。それが自分の生きる道となります。どの道を進めばいいのでしょうか?
 ヘーゲル先生のところで学んでいる大学2年生とアメリカに留学経験がある会社員を対象にした授業が紹介されます。この日に学んでいるのはオランダの歴史家ホイジンガによる『中世の秋』という作品です。
 ホイジンガは、大学卒業後に、たまたま見つけた高校教師の募集に応募し教壇に立ちます。ところが高校教師のままでいいのかと悩む日がやってくるのです。自分の心が動いていないことに気付いた彼は「決死の大ジャンプ」をして歴史学の道に進むのでした。
 ホイジンガの書いた『中世の秋』は生き生きとした文章です。なぜならば編年体で書かれていないからです。
 ヘーゲル先生は、生徒たちに本をどのように読んだらいいのかを教えてくれます。本を読むときには「著者はなぜこう書いたのか?」を問いながら読むというのです。著者とおしゃべりをしながら読むのです。
 本の内容をそのまま理解しようとして読んでいると、書かれていることがまるで絶対的な真実のように感じられてしまい、独りよがりの解釈になってしまうというのです。 
 先人の肩を借りて生きる道を見るに当たっては、その先人の残した著書をそのまま理解するのではなく、対話しながら読み進める必要があるということのようです。

5)会社員にぴったりな人物発見
 冒頭の会社員にとって参考になる本として、デカルトの『方法序説』が紹介されます。
 デカルトは、子どもの頃から、本に書かれたものを勉強すればすべてのことが分かると言われて育てられたそうです。ところが大学を卒業したときに、この考え方は間違っていると気付きます。
 デカルトは、本に書かれていることではなく、自分で自分のことについて考えるという研究を開始するのです。本に書かれていないことを研究するのですからたいへんです。感覚に頼りたくなります。しかしデカルトはその感覚を破棄します。ほんの少しでも疑わしいものは破棄していくのです。
 ヘーゲル先生の導きに対して会社員は「どこがぴったりなのか?」と問いを持ったようです。自分には一つ一つを疑っている暇などないといった感じです。ヘーゲル先生はニヤッと笑って「一つ一つを現実との関わる中で確認すればいい」と言います。自分で感じ、自分で考え、自分の言葉を見つけるというのがコツだというのです。
 学校でたくさんの知識を暗記してテストでいい点を取っても、自分のコトバになっていない知識は使い物にならないということを言いたいようです。
 自分の人生に疑問を持った会社員は、ここまでの古典をどのように受け止めたのでしょうか? ヘーゲル先生は「自分ばかり見ていたら頭でっかちの考えになるから、現実との関わりの中で考えないとだめだよ」とアドバイスするのでした。

6) 大きな視野を持つのだ
 人生について考えていた会社員の悩みは、やがて恋愛相談に発展(?)していきます。真剣に相談する会社員に対してヘーゲル先生は「どうも君は自分ばかり見ているようだ。もっと大きな視野で捉えた方がいいのではないか」とアドバイスします。
 大きな視野の一つとして取り出したのが再び登場のヘーゲルです。「自分の人生はこのままでいいのか?」という疑問が近代以降に人間が抱くようになった問いだと前置きしてお話を始めます。
 今の君に必要なのは、悩んでばかりいないで、ヘーゲルのように誰かと向き合って、進んで対峙することだ。自分を知るには相手が必要なんだ、とヘーゲル先生は言うのでした。

7)自分と向き合うのだ
 相手と対峙する必要があると受け止めた会社員は、冒頭で起業を持ちかけた友人と対立してしまいます。それを聞いたヘーゲル先生は「君は勘違いをしている。相手と対立するのではなく、向き合うのは自分だ」と諭します。
 自分と向き合うというのはどういうことなのでしょう? ヘーゲル先生は慎重にお話をすすめます。なぜ慎重なのかというと、この会社員が抱えている悩みは、上手に整理すると、未来に向けての大きな可能性になるのですが、扱いに失敗すると木っ端微塵になってしまうと恐ろしいことを言うのです。
 このあとヘーゲル先生は、ソクラテスからはじまり、シカゴ大学の政治哲学者アラン・ブルームの『アメリカン・マインドの終焉』を取り上げる壮大なお話を始めます。会社員は、無意識とはいえ、いかに友人に対して配慮のない言動をしてしまったのかに気付くのでした。

8) 友人を救い出せ!
 一連の授業で、会社員は「自分が持っている当たり前」と「他者が持っている当たり前」の存在に気付き始めます。自分自身の迷い、そしてその迷いの元となった友人との会話がきっかけで古典との対話はすすみます。
 ところがこのタイミングでたいへんなことが起きてしまいました。なんと起業を持ちかけてきた友人が怪しげな副業を始めてしまったのです。どうやって救い出すことができるのかをヘーゲル先生に相談することにしました。
 友人との適切な接し方を模索するために登場する人物はユングとエリクソンです。怪しげな商売をはじめた友人を救い出すためにとはいえ、少し大げさに感じるかもしれませんが、ヘーゲル先生の授業は、不自然さを感じさせません。
 そして、エリクソンのアイデンティティを『青年ルター』という著作で説明してくれるのです。エリクソンがルターに関心を持っていたことについて紹介者は知りませんでした。ヘーゲル先生は、エリクソンが書いたルターの生き方が、怪しげな商売を始めた友人を助けることにつながると考えて授業を進めるのです。

9)そして未来に
 読み進めるうちに、迷いのある会社員、フランス文学を学ぶ大学2年生、アメリカに留学経験がある会社員、そして小学3年生の2人が、いろいろなことを学んでいる様子が伝わってきます。
 読むこと、書くこと、考えることを書斎から持ってきた本をもとに教え諭す授業は今日も続いているように思えます。

10)本書の全体像
 本書の目次は次のとおりです。 
 はじめに 心の羅針盤の見つけ方
 序章 先生、僕の人生はこのままでいいでしょうか?
 1章 先人の肩を借りる
 2章 勉強すれば、すべてのことが分かる?
 3章 悩むくらいなら、進んで「対立」するんだ
 4章 信念がぐらつけば、人は真実を探ろうとする
 5章 新しい一歩は、自分に向き合うことからはじまる
 6章 自信を持って自分で決めるために必要なこと
 7章 人生の課題
 終章 それぞれのその後

③ どこが役に立つのか?
 夏目漱石、福沢諭吉、ヘーゲル、ホイジンガ、ユング、エリクソン、デカルト、ヘーゲルに関する知識の再構成ができます。ひとりの人間が様々な選択に迫られたとき、古典はどのようなメッセージを発信してくれるのかを追いかけることができます。
 また、ヘーゲル先生は、本と対話することを取り上げていますが、その中に「ダ・ヴィンチとおしゃべりしてみよう」といった絵と対話するところがあります。これは、今月紹介したもう一冊の『スロー・ルッキング』と通じるところがあります。同じようなことを主張している本が、同時期に出版されるというのは偶然ではないようです。

④ 感 想
 400ページ弱の本ですが、一気に読むことができます。難しい話しを、人に易しく伝えるという体験ができました。ヘーゲルに『イエスの生涯』、『キリスト教の精神とその運命』といった著作があることを知りませんでした(出版されなかったそうです)。
「さあ読むぞー」なんて気合いを入れなくても、どんどんページが進んでいきます。ラストの小学生による台詞が、爽やかな読後感を届けてくれました。
     (金子幹夫)

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