① なぜこの本を選んだのか?
 教師が「価格」について、こういうことを知っていたら授業づくりに役立つという知識がたくさん書かれています。取り上げている時期は1990年代から現代までですが、ここ数年の変化をわかりやすく解説してくれています。
 さらに研究者としての迷いや、読者にどう説明すればよいのかという工夫の経過も示しています。約400ページの本ですが、専門用語で立ち止まることがなかったところから、教材研究に適しているのではないかと思い選びました。

② どのような内容か?
1)渡辺努先生は何を研究しているのか?
 渡辺先生は、「物価」と「金融政策」について研究している経済学者です。
 『物価とは何か』や『世界インフレの謎』といった著書があります。
 研究者になる前は日本銀行の職員でした。
      
2)どのような問題意識を持った本なのか?
 本書が出版された2024年は、長く続いたデフレが終わり、物価と賃金が緩やかに上昇するインフレに移行しつつある時でした。
 渡辺先生は、「インフレはなぜはじまったのか?」,「デフレはなぜ終わったのか」という問いを立てています。なぜこの問いを持つようになったのでしょうか。

3)気になる世の中の動き
 渡辺先生が立てた問いの背景には,心に引っかかる出来事があったそうです。それはガリガリ君(アイス)や鳥貴族の値上げでした。
 渡辺先生は、この値上げを見て「いつもより高い価格を示すと客は他店に逃げるのではないか?」という仮説を立てます。価格を上げるという行為は企業にとって勇気が要る行動のようです。
 ところで価格が動かないという状況は、企業だけを見ていれば理解できるのでしょうか?本書では労働者の賃上げという角度からも私たちに価格据え置きの仕組みを教えてくれます。
 なぜ企業は価格を据え置き続けたのでしょうか。なぜ労働者は賃上げを求めなかったのでしょうか。屈折需要曲線、賃金・物価スパイラル理論という中学、高校の教科書には書かれていない理論で説明してくれます。教師はこういう理論の存在を知っておくことで、生徒にわかりやすい事例を選び、説明することができると思います(理論を教えようということではありません)。

4)インフレはなぜはじまったのか?
 本書はパンデミックに注目して分析しています。パンデミック前の消費は、モノ消費からサービス消費に流れていました。ところがパンデミック以後は、商品をタイムリーに消費者に届けるため国外に生産拠点を置くという体制を見直し始めたことを指摘しています。貿易量が頭打ちになり脱グローバル化がすすむと、インフレ率を高める効果があると説明しています。

5)デフレはなぜ終わったのか?
「物価は据え置き」という予想が払拭されたことを理由としてあげています。
 背景には、米欧の激しいインフレやロシアのウクライナ侵攻があられていました。
 本書はこの時の様子を、物価、賃金、金利に起きた5つの変化として取り上げていました。その上で「慢性デフレを引き起こしたのも、慢性デフレの幕引きをしようとしているのも、どちらも消費者」であるという考え方を示しています。
 賃金については早川仮説という興味深い捉え方をしています。これは、97年労使密約というもので「企業が正社員の雇用を守る代わりに、労組は今後、賃上げを要求しないという暗黙の約束を交わした可能性」があるというものでした。

6)デフレはどうして慢性化していたのか?
 デフレが慢性化した原因は、買い手、売り手のどちらに原因があるのでしょうか?
 本書は売り手に問題があるという立場から論じています。
 ここで注意しなければならないのは、価格調整のスピードです。マクロ経済学の中心課題である価格調整のスピードに留意しながら約30年続いた慢性デフレを説明しています。
 渡辺先生は,慢性デフレの始まりは、経営者がこれ以上の賃上げをしないという戦略を唱え、労働組合がそれに応じたことにあるという仮説を立てています。
 この仮説を支持するならば、デフレ脱却の政策面のポイントは、いかにして企業に賃上げさせるかということになります。

7)物価の問題を考えるのは誰か?
 本書は、デフレでもインフレでも、物価に望ましくない状況が起きたときに対応するのは中央銀行(日銀)という立場を一貫してもっています。
 その上で物価を財政面から説明することについて詳しく記述しています。ここでは、財政赤字があるにもかかわらず政府が減税したときの人々の行動について考察しています。多くの人々は、将来の増税を予想して減税分を貯蓄に回すため消費は増えないという考え方は、生徒も感覚として理解できるのではないかと思います。

8)インフレやデフレは悪なのか?
 ここまで“インフレ”や“デフレ”という用語をためらうことなく使ってきましたが、渡辺先生は、一般の人が理解する“インフレ=悪”と経済学者が使う“インフレ=悪”とが異なることを指摘しています。
 この違いがわからないと、政府や日銀が行っている政策の背景が理解できないのです。経済学者は何に注目しているのでしょうか?価格のばらつき、そして生産者や消費者の意思決定と絡めて違いを説明してくれます。
 
9)日銀が2%のインフレを目指す理由
 本書では、この2%の理由を2つあげています。この理由を示すプロセスで、価格のばらつきには2つの原因があること、そしてそれぞれに対処方法が異なることが指摘されています。
 一方で、この2という数字の理由には不完全な部分もあることを認めています。生徒から「何で2%なの?(何で1%や3%ではないの?)」という質問に直接答えることは難しいですが、その背後にある理論に触れることができます。

10)異次元緩和というのはどういうものであったのか?
 量的・質的金融緩和政策という正式名称を持つ異次元緩和とはどのようなものだったのだったのでしょうか。もう一歩進めて、マネー量を増やす政策はなぜうまくいかなかったのかを考えます。
 読者は,マネーの供給を増やすと市場金利が下がるという流れがうまく機能したのかどうか?そして総需要が増えれば物価が上がるという流れがうまく機能したのかどうかという視点で読み取ることができます。

11)非伝統的金融政策の終了から浮かび上がる問い
 2024年3月、日銀は非伝統的金融政策の終了を決めました。
 この後、政策金利が上がるということと供給されるマネーの量が増えるという状況を迎えることになります。
 渡辺先生は日銀で働いていたときに、先輩から「金利とマネーの量はコインの裏表だ」と教わったことが書かれています。現在(2024年3月以降)の政策をどのように理解すればよいのかについて教えてくれます。
 そして、最後に日本銀行がこれから解かなければならない難問を2つ示して本書を閉じています。

12)全体像
 以上が、『物価を考える デフレの謎、インフレの謎』の大きな流れです。最後に目次を示して全体像を眺めることにします。
 
 第1章 デフレとは何だったのか
 第2章 なぜ今デフレが終わり、インフレが始まったのか
 第3章 デフレはなぜ慢性化したのか
 第4章 インフレやデフレはなぜ「悪」なのか
 第5章 異次元緩和の失敗から何を学ぶべきか

③ どこが役に立つのか?
 価格をめぐって家計、企業、政府、日銀がどのような考え方のもとで行動しているのかを受け止めることができました。
 絵本『レモンをおカネにかえる法』を教材として取り上げたいのだけれど、生徒から「絵本・・・?子ども扱いしないで!」という声が聞こえてきそうでためらっている先生にとって本書は役立つと思います。絵の背後に潜む経済的な見方や考え方を紹介することで、中身の濃い授業展開が実現しそうです。
※ L・アームストロング著 B・バッソ絵 佐和隆光訳『レモンをお金にかえる法
“経済学入門”の巻』河出書房新社 2005年

④ 感 想
 各章のタイトルをはじめ、文章の小さな塊が次の展開に入るとときに“疑問形”でつないであるので、どんどん読み進めることができます。
 一つ一つの疑問文は、生徒が持つであろう問いに近いものだと思います。「先生教えて」と言ってくる生徒に答える知識の基盤を私たちにインストールしてくれる本だと思います。

                         (神奈川県立三浦初声高等学校   金子 幹夫)

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