授業は小説に勝てるか

学校教師は電脳生徒の夢をさますことができるか?
執筆者 新井 明                           

 このタイトルを見て映画『ブレードランナー』の原作タイトルを思い浮かべた先生がいたら敬意を表します。
 なぜ、このようなタイトルの文章を書いたのか。きっかけは二つです。
 一つは、高校三年生の「政治・経済」の講座で赤点をとった二人の女子生徒に追試がわりに「10年後の28歳になったときにどんな生活をして、それをするためにどのくらいのお金がかかるかを調べて書きなさい」という課題のレポートの内容が印象的だったことです。
 もう一つは、その学校の図書館から借りて読んだ、原田ひ香の小説『老人ホテル』の内容がその生徒のレポートとシンクロしたからです。

間違えて選択した生徒
 筆者の担当している講座は必修選択の講座です。本来なら受験で必要だからなど何らかの動機や関心をもっているはずです。しかし、赤点生徒は、他にとりたい授業がなかったし、卒業単位をそろえるのにはその時間帯にはこれしかなかったという消極的、ある意味極めて正直な理由で受講登録をした生徒たちでした。
 彼女らは、授業中はぼーっとしているか、こっそりスマホを眺めている電脳少女で、担当者としてはこれでは危ないと早くから思っていた生徒です。
 中間も赤点で、そのあとどうしたら良いかと相談を受け、かくかくしかじかの勉強をすれば最低点はとれるはずと励ましたのですが、期末も残念な結果でした。
 そこで救済の課題となった次第です。

生徒の希望
 二人のレポート結論は大変似ていました。二人とも結婚をして家庭を持つ。それまでは、一人はフリーターとして生活をしながらお金を稼ぐ、もう一人は専門学校にいってそこで得た技術でお金を稼ぐというものでした。それぞれ、家をでて一人暮らしをした場合の初期費用や学費の計算を調べて書いていました。
 それを読んで二人ともよく似たライフプランであることがとても印象的でした。また、彼女らの関心が自分をとりまく世界のなかからなかなか抜け出せないのも印象的でした。

小説世界のリアリティ
 もう一つのきっかけの小説『老人ホテル』の作者原田ひ香さんは、『3000円の使い方』がベストセラーになった最近注目の作家です。
 『老人ホテル』は、ビジネスホテルの一階をついの住みかとする訳あり老人たちと、そこで清掃員として働く天使(エンジェル)というキラキラネームを持つ高校中退、キャバクラ勤務経験の24歳の主人公との関わりを描いた小説です。
 そこで取上げられているのは、貧困女性、それをとりまく生活保護で生きている大家族、虐待一歩手前の子育てであり、そこから抜け出そうとする主人公です。
 一方の訳あり老人たちは、天使の生育歴を聞こうとする元ジャーナリスト、不動産投資で財産を築いた老女、株式投資をする老人などです。
 小説的な面白さは別として、経済の授業と関連するのは、不動産投資をしていた光子という老女が天使に指南するお金の使い方、ため方であり、生活スタイルの立て直し方の箇所です。

具体的な指南は胸に響く
 同書からその指南を抜き出してみます。
 光子は、まず、天使に今日何を食べたのかを言わせます。それがいくらかかったのかを思い出させて、一日の食費を計算させます。それを30倍すると一月の食費がでてきます。天使は自炊をしていないので、収入の半分近くが食費になるということを自覚させることからはじめ、簡単な自炊方法を教えでゆきます。
 次には、1000円を天使に渡して、指定の品物を買わせ、そのレシートを保存するように指示します。それで支出の管理をさせるというわけです。
 次は住です。住居費を出させて、安いアパートを探させます。ここも具体的な場所や探し方の指示を出して、転居させ、少しでも貯金ができるようにさせます。
 貯金するために銀行口座をつくらせ、そこに毎月の残余のお金を入金させます。それが一定程度たまったら、株式投資の老人にバトンタッチをして、運用方法を指南させます。
 ほかにも、正社員になれ、など細かい具体的な指示が書かれていますが、省略しましょう。ポイントはすべて具体的な指示、指南です。

授業は小説に勝てないか
 ここまで紹介した部分は、小説的な面白さをもって書かれています。
 主人公の天使が、名前とは違って邪悪な心ももっていること、でも現状を抜け出そうとしているところ、老人たちの奇矯ぶり、それを突破して知恵を引き出すテクニックなど、小説ならではの筆致です。
 この面白さと具体性に対して、授業で扱う消費者教育やパーソナルファイナンスはどうしても一般論でしかなく、太刀打ちできません。まして、市場経済の仕組みや財政、金融、景気変動などマクロ経済の話はどこの世界の話かねという感覚だろうと思います。
 それでは授業は小説に勝てないのでしょうか。そんなことはないはずと筆者は思いたい。もしそうなら、授業中に小説を読ませればいいし、映画を見せておけば良いことになってしまいます。
 勝つポイントは、比較優位です。もっと言えば授業の比較優位が提示できれば勝たなくともいいのです。小説のリアルさ、切実さ、面白さに対抗することはできないけれど、経済は面白い、お金のことだけではないのだよというきっかけを与えることができる領域や場面さえ見つけられればそれで授業は十分に意味があるものとなるのではと思います。もう一つ言えば、今の世の中の風潮や仕組みを与件として考えないこともできるということが伝えられれば、それはそれで大成功かもしれません。

勝負はこれからだ
 では、具体的にどんな授業が電脳少年・少女に伝わるモノになるのか。河原和之先生の提唱されているユニバーサルデザインの授業が一つの突破口になるでしょう。そんな授業の具体例や実践を次世代の先生方に探究して欲しいと思うのです。そのためには、この授業のヒントのコーナーや今夏の経済教室が、「腑に落ちる」「伝わる」授業作りの提案や討論の場となるといいなと思っています。
 ちなみに、赤点電脳少女たちのレポートは添削して返却、その時にはいろいろと雑談をしながら話をしてゆくつもりです。また、次に赤点をとったら、原田さんの本を紹介して、読ませようと思っています。でも、これは授業の敗北かもしれせんね。
そうなる前に、いかなる授業を組み立てるか。夏の宿題になりそうです。